大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で忘れた頃に画面へ現れていた足立遠元。
大野泰広さんが演じていた、いかにも温和そうなキャラクターでしたが、ドラマも中盤を越えてくると、しばしば怯えた表情を浮かべるようになりました。
なぜなら彼は畠山重忠と同じく武蔵を本拠とする御家人であり、北条時政に狙われる恐怖に怯えていたからです。
北条政子に「アナタは大丈夫(なぜなら地味キャラだから)」という趣旨で慰められ、「それはそれで……」と複雑そうな表情を浮かべていましたが、実際のところ如何なる人物だったのか?
残酷な粛清に遭うことなく、無事に生涯をまっとうできたのか?

足立遠元の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
武蔵国出身の足立遠元 血筋は不明
足立遠元は、武蔵国足立郡を本拠地とする足立氏の一員です。
武蔵国足立郡は現在の東京都足立区……だけでなく、そこから北北西へ埼玉県鴻巣市まで続く広いエリアを指します。
ざっくりいえば、武蔵の実力者の一人という感じでしょうか。
しかし彼の血筋については、まだ定説と呼べるものがありません。
というようにバラエティに富んでいて、さらには、同じく十三人のメンバー・安達盛長の親族という説もあります。
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盛長は晩年まで自らの氏を「足立」と表記していたため、何らかの縁があっても不自然ではありません。
遠元は、出自だけでなく、生没年も不明です。
平治元年(1159年)【平治の乱】では源義平の麾下で戦っているため、少なくともこの頃までに元服していたことは間違いありません。
詳しくは後述しますが、『吾妻鏡』内での記述からすると1130年代誕生の可能性が高そうです。
参考までに鎌倉幕府の重臣のうち、生年がわかっている人々を挙げてみますと……。
安達盛長:保延元年(1135年)
北条時政:保延四年(1138年)
三善康信:保延六年(1140年)
八田知家:康治元年(1142年)
中原親能:康治二年(1143年)
源頼朝 :久安三年(1147年)
和田義盛:久安三年(1147年)
大江広元:久安四年(1148年)
遠元が1130年代であれば年長の部類ですし、1140年代生まれであれば頼朝と同世代となりますね。
平治の乱で歴史に初登場
足立遠元が歴史に初めて登場したのは前述の通り【平治の乱】だと考えられています。
このとき彼は源義朝に従い、長子・義平の麾下で戦ったとされているのです。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用
『平治物語』では、平重盛(清盛長男)と源義平が対決した際、義平に従った十七騎の武者のうち”抜きん出た者”の一人として名が挙がっています。
ただし、足立氏については遠元以前の動向がハッキリせず「なぜ源氏についたのか」という点については謎。
遠元の母方の祖先・豊島氏が【前九年の役】で源頼義についていた――という説がありますので、その縁からでしょうか。
『吾妻鏡』での初登場は、治承四年(1180年)10月2日の記述です。
このころ源頼朝は石橋山の敗北から安房に逃れ、房総半島を北上して武蔵に入るところでした。
そこに「前々からの命令に従って、足立遠元が頼朝一行の迎えに来る予定である」と書かれています。
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また、同月8日にも「遠元は日頃からよく仕えてくれているので、以前からの領地をそのまま認める」と安堵を受けたらしきことが記載されています。
吾妻鏡が後年の編纂であること、散逸部分があることを差し引いても、当初からかなり好意的な記述に見えますね。
それだけに、具体的に何を指して「よく仕えている」と評したのか、定かでないところが実に気になります。
一体何をされたのでしょう……。
平頼盛「餞別の宴」に出席
足立遠元は、その後は武人というより事務方として登場します。
具体的に何をやったか?というと、
・将軍の寺社参詣
・寺社での行事
・貴人や御家人の宴席
・頼朝の上洛
など、行事の取り仕切りや歓待など、政治体制を固めていく上では欠かせない役割でありますね。
例えば、養和二年(1182年)4月5日、頼朝が藤原秀衡調伏のため江ノ島へ出掛けた際、随行者の一員として名が出てきています。

藤原秀衡/wikipediaより引用
また、元暦元年(1184年)6月1日には、平頼盛の餞別の宴にも出席していました。
平頼盛はその名の通り、平家の一員で清盛の異母弟です。
頼朝の助命を嘆願したことで有名な池禅尼の実子でもあり、木曽義仲が京都に攻め入った後、一門の都落ちには同行せず、鎌倉へ亡命していました。
頼朝が助命されたのは池禅尼だけではなく、当時の出仕先だった上西門院(後白河天皇の同母姉)や、母の実家である熱田大宮司家の嘆願もあったとされています。
しかし、頼朝は「恩を受けた相手とその家族」は過剰なほどの厚遇する傾向がありますから、おそらく池禅尼への謝意として、頼盛を受け入れたのではないでしょうか。
頼盛は鎌倉に着いたとき、武器を持たずに頼朝と対面したそうですので、敵意がないことも明らか。
また、当時の頼朝は新政権と朝廷とのパイプを作るため、官職経験者を一人でも多く求めていました。
そこへうってつけの人が現れたのですから、この面から見ても厚遇する理由は十分です。
そうしたいくつもの理由があって、頼盛は鎌倉にしばらく留まっていました。
一度京都に戻ったこともあったようですが、再び鎌倉に身を寄せています。
そして平家が滅んだ後、頼朝から朝廷へ取りなし、頼盛とその子息が京都に戻ること、そして元の官職に返り咲くことが認められました。
こうした経緯で、この日、餞別の宴が開かれたのです。
そしてこのとき、濡れ縁に控えていた御家人の一人として、遠元の名が登場します。
他には
小山朝政
三浦義澄
結城朝光
下河辺行平
畠山重忠
橘公長
八田知家
後藤基清
などの名が挙げられており、「彼らは皆、京都に馴染みのある者だ」と記されています。
“京都に馴染み”とは、詳細が記されていないながら、おそらく地方の武士に京都の警備を命じる「大番役」の経験者でしょう。
三年間京都に詰めていなければならないため、金銭的な面や家中統制の面で非常に大きな負担になりました。
しかしその一方で、地方の武士が公家とパイプを作る絶好の機会でもあり、都の文化を地元へ伝えるキッカケにもなっていたのです。
公文所の寄人に就任する
足立遠元は当初から文官として頼朝に仕えていたのか。
頼朝の鎌倉入り、あるいは源義経の参戦などにより、激化していく源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍した記録がありません。
吾妻鏡の中で次に登場するのは、元暦元年(1184年)8月28日のこと。
この日、建築中の公文所に門が立ち、遠元は大江広元・三善善信とともに立ち会っていました。
ここで大庭景能に酒を振る舞われています。
そしてそれから約一ヶ月半後、元暦元年(1184年)10月6日に公文所の寄人(よりうど・よりゅうど)に任じられました。
寄人とは役所の職員のことです。
公文所は、その名の通り公文書を扱う役所で、後に政所(まんどころ)と改称しました。
そのため、別当(長官)の大江広元を始め、他の寄人は皆京都出身者で占められています。

大江広元/Wikipediaより引用
これらを考え合わせると、遠元はこの時期の武士としては珍しく、文字の読み書きができ、政治(統治)の心得もあったのでしょう。
彼の父が藤原遠兼とされていますので、文化的教育を受けていてもおかしくはなさそうですしね。
あくまで私見ながら、官人出身者たちに関東の流儀や関東武士の気性などを伝え、ときには両者の間に立つクッション役になっていたのかもしれません。
文官的な仕事ができる御家人といえば梶原景時がいますし、関東の実力者という面でいえば三浦義澄など、もっと大身もいます。
彼らではなく遠元が選ばれたのは、記録に残りにくい日常生活上での美点があったのではないでしょうか。
重要な儀式や行事に名を連ね
この後も足立遠元は、派手な手柄や特徴的な逸話はないものの、重要な場面に臨席したり、寺院への文書に署名が残されています。
例えば、元暦二年(1185年)6月7日。
鎌倉へ引き立てられていた平宗盛が頼朝と御簾越しに対面した際、北条時政や大江広元などとともに臨席していました。

平宗盛/Wikipediaより引用
他にも勝長寿院の落慶供養や、鶴岡八幡宮での放生会などに遠元の名が見えます。
また、吾妻鏡の文治二年(1186年)1月28日の記述では、一条能保とその妻(頼朝の同母姉妹・坊門姫)が遠元の邸に宿泊していたとされています。
頼朝も妹夫婦の餞別のため、政子と共に遠元邸へやってきました。
一条能保本人も、頼朝とは浅からぬ縁があります。
彼の祖母が上西門院(後白河法皇の同母姉)の乳母を務めていたのですが、上西門院は、平治の乱で流されるまで頼朝の出仕先でもありました。
そうした頼朝にとってさまざまな縁がある相手の宿所を任されたという点で、遠元への信頼がうかがえます。
これもやはり、遠元が京都慣れしていたからでしょうか。
また、文治二年(1186年)12月1日にはこんな記述があります。
この日、千葉常胤が久々に鎌倉にやってきたので、頼朝が侍所へ行って宴を開きました。
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遠元は小山朝政・三善善信・安達盛長らと共に相伴していて、彼らを指して「宿老」と書かれているのです。
常胤の生年が元永元年(1118年)、他の人々も1130年代前後の生まれですので、久安三年(1147年)生まれの頼朝からすると皆年長者でした。
遠元が年長者として扱われている場面は、文治三年(1187年)9月9日にもみられます。
この日は重陽の節句。
現代ではあまり注目されませんが、当時は菊の花を浸した酒を飲んだり、菊の花についた露を真綿に移しで顔や体を拭ったりして、不老長寿を願うものです。
この年の重陽の日は、比企尼の家の庭に白菊が咲いたので、頼朝と政子が連れ立って訪問し、それに三浦義澄や遠元ら年長の御家人がお供をした、と書かれています。
頼朝の上洛にも随行
次世代の源氏や御家人に関する儀式でも、年長者の一員として足立遠元の名が散見されます。
文治四年(1188年)7月10日には、万寿(後の源頼家)の鎧初めに列席しました。
多くの御家人が着替えの手伝いをしたり、武具を献上している中、遠元はこの日、鎧に乗って乗馬をした後の万寿を馬から降ろし、鎧を脱がせる役を務めました。
さぞかし名誉なことだったでしょう。

源頼家/wikipediaより引用
同年7月15日には、勝長寿院で頼朝の父・源義朝の供養が行われています。
遠元は大内善信・千葉常胤とともに実務を担当。
この間、文治五年(1189年)7月には奥州藤原氏征伐に従軍していますが、やはりというかなんというか、武功と呼べるものはなかったようです。
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建久元年(1190年)10月には、頼朝の上洛にも随行しています。
同年11月29日に頼朝が後白河法皇に拝謁する際、遠元は他11人の主だった御家人とともに、狩衣の下に腹巻を身につけて随行したとか。
”腹巻”とは、むろん腹部の保温に使うアレではなく、簡易的な鎧です。
一般的に日本史上でイメージする鎧は”大鎧”といい、肩や脚を守るためのパーツがついています。
これに対し、腹巻はその名の通り、腹部・背部だけを守るためのものですね。
腕や脚はほぼノーガードで兜も付属しませんが、動きやすさが評価され、多くの武士に愛用されるようになっていきました。
この上洛では、後白河法皇の命令で頼朝が十名の御家人を官職に推挙していて、遠元もそのうちの一人に選ばれ、和田義盛や三浦義連とともに左衛門尉の職を受けました。
左衛門尉とは、内裏の門を警備する衛門府の役人のうち、三番目にエライ役職です。
その際、遠元は「藤原足立遠元」と記載されており、ここからも藤原氏の流れをくんでいたであろうことがわかります。
自慢の名馬を頼朝へ献上
建久二年(1191年)6月、一条能保の姫(頼朝の姪)の嫁ぎ先に従う侍の衣装に使う絹を準備する役に選ばれました。
遠元の他、三善善信や三浦義澄などが同じ役割を担当していたのですが、連絡の不備でもあったのか、絹の到着が遅れてしまいます。
当然、頼朝は立腹。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikimedia commons
大江広元らが上方で滞りなく女房たちの衣装を用意していたので、その差も目についたのでしょう。
その場は善信が「きっと絹を運ぶ馬が練り歩いているのでしょう」とジョークを言って和ませたため、なんとかなったそうですけれども。
※「練り歩く」と「絹を練る」をかけた洒落
建久二年(1191年)8月には、別のものも用立てています。
この日、遠元を含む16名の御家人が頼朝に一頭ずつ馬を献上しました。
遠元が用意したのは、鴾毛(つきげ)という毛色の馬で、現代の表記では「月毛」となり、淡い黄褐色の毛を持ちます。
平治の乱で平重盛が乗っていた馬の色でもあり、後世では上杉謙信の愛馬「放生月毛」でもよく知られていますね。
美しい色で明るく、戦場では非常に目立ちます。
つまり敵から狙われやすくなるので、それでも乗るというのは自信の表れでもあったでしょう。
このとき遠元以外に、足利義兼・小山朝政・葛西清重・宇都宮頼業が月毛の馬を献上しています。
彼らはいずれも下野~武蔵の御家人であるため、当時この地域で月毛の馬が多く育てられていたのかもしれません。
ちなみに、このとき献上された馬の数と献上した人を毛色別に並べると、
鴾毛 5頭
足利義兼・小山朝政・葛西清重・宇都宮頼業・足立遠元
鹿毛 2頭
小山(結城)朝光・小山(長沼)宗政
栗毛 2頭
土屋宗遠・三浦義澄
黒(おそらく青毛?)
2頭 下河邊行平・梶原景時
黒栗毛 1頭
北条時政
黒鹿毛(おそらく青鹿毛?)
1頭 畠山重忠
青駮 1頭
武田信光
糟毛 1頭
千葉常胤
葦毛 1頭
和田義盛
と鎌倉政権における錚々たるメンバーが揃っていますね。
関東・甲信には古代より公営の牧場が多々存在していたため、皆自慢の名馬を献上したのだろうと思われます。
かなり幸運な晩年だったのでは?
この後も足立遠元は、基本的には文官として働いていたらしく、寺社での式典や供養などの場面で登場します。
建久六年(1195年)に頼朝が二回目の上洛をしたときも随行し、京都の寺社参詣の節でも名前が出てきました。
他の御家人たち同様、建久十年(1199年)1月に頼朝が死去した際や、直後に頼家が将軍職を継いだ後の言動は記録されていません。
同年4月には十三人の合議制に選ばれていますけれども、こちらも特に反応はなし。
頼家の将軍時代中の遠元は、乙姫(三幡)の葬儀に参列したこと、梶原景時の弾劾状に署名したことくらいしか登場しません。

『本朝百将伝』梶原景時/国立国会図書館蔵
1130年代生まれと仮定した場合、この時点で70歳近くになっているはずですから、無理もないことでしょう。
ただし、源実朝が将軍になってからは、少しだけ名前が出てくる機会が増えます。
建仁三年(1203年)10月に実朝の鎧初めが行われた際、遠元は小山朝政とともに、鎧や母衣の着用などについて指南。
また、建仁三年(1203年)11月15日に実朝の命で、鎌倉中の主な寺社に奉行が任命された際、阿弥陀堂の担当に選ばれました。
その一ヶ月後には、永福寺などに参詣する実朝に随行したこともありました。
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その後は、元久二年(1205年)の元日に北条時政が行った椀飯(わんばん・この場合は重臣が将軍を饗応すること)の際、引き出物の行縢(むかばき)と沓(くつ)を遠元から実朝に献上したことがあります。
このとき、同じく引き出物の馬を引く役の一人として、遠元の子・元春の名も挙がっています。
遠元本人が出てくる最後の記述は、建永二年(1207年)3月3日。
この日幕府で闘鶏の会が開かれ、遠元も見物に来ました。
闘鶏は8世紀頃には日本に定着していて、平安時代には「鶏合(とりあわせ)」と呼ばれる恒例行事になっていました。
特に宮中では3月3日=上巳(じょうし)の節句に行われ、鶏合は春の季語となっていたほどです。
残念ながら、遠元死去の前後に関する記述は吾妻鏡に存在しません。
1130年代生まれとすれば既に古希を越えており、寿命で穏やかに亡くなったのでしょう。
大河ドラマでは武蔵国の支配を狙う北条時政を恐れ、畠山重忠と共に討たれそうな印象もありましたが、やはりドラマ内で北条政子に「あなたは大丈夫」と言われていたように、危険視はされない存在だったのでしょう。
この時代の幕府関係者としては、かなり幸運な晩年を過ごしたと思われます。
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【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
国史大辞典







