足立遠元

足立遠元も側で随行した頼朝上洛の図/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

武蔵の御家人・足立遠元~粛清の恐怖に怯えることなく平和な最期を迎えた?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で忘れた頃に画面へ現れていた足立遠元

大野泰広さんが演じていた、いかにも温和そうなキャラクターでしたが、ドラマも中盤を越えてくると、しばしば怯えた表情を浮かべるようになりました。

なぜなら彼は畠山重忠と同じく武蔵を本拠とする御家人であり、北条時政に狙われる恐怖に怯えていたからです。

北条政子に「アナタは大丈夫(なぜなら地味キャラだから)」という趣旨で慰められ、「それはそれで……」と複雑そうな表情を浮かべていましたが、実際のところ如何なる人物だったのか?

残酷な粛清に遭うことなく、無事に生涯をまっとうできたのか?

足立遠元の生涯を史実面から振り返ってみましょう。

 


武蔵国出身の足立遠元 血筋は不明

足立遠元は、武蔵国足立郡を本拠地とする足立氏の一員です。

武蔵国足立郡は現在の東京都足立区……だけでなく、そこから北北西へ埼玉県鴻巣市まで続く広いエリアを指します。

ざっくりいえば、武蔵の実力者の一人という感じでしょうか。

しかし彼の血筋については、まだ定説と呼べるものがありません。

◆藤原北家魚名流・藤原山蔭の末裔という説

◆同じく藤原北家勧修寺流の流れを引く説

◆はたまた平将門の乱の遠因となった武蔵武芝の子孫という説

というようにバラエティに富んでいて、さらには、同じく十三人のメンバー・安達盛長の親族という説もあります。

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盛長は晩年まで自らの氏を「足立」と表記していたため、何らかの縁があっても不自然ではありません。

遠元は、出自だけでなく、生没年も不明です。

平治元年(1159年)【平治の乱】では源義平の麾下で戦っているため、少なくともこの頃までに元服していたことは間違いありません。

詳しくは後述しますが、『吾妻鏡』内での記述からすると1130年代誕生の可能性が高そうです。

参考までに鎌倉幕府の重臣のうち、生年がわかっている人々を挙げてみますと……。

安達盛長:保延元年(1135年)

北条時政:保延四年(1138年)

三善康信:保延六年(1140年)

八田知家:康治元年(1142年)

中原親能:康治二年(1143年)

源頼朝 :久安三年(1147年)

和田義盛:久安三年(1147年)

大江広元:久安四年(1148年)

遠元が1130年代であれば年長の部類ですし、1140年代生まれであれば頼朝と同世代となりますね。

 


平治の乱で歴史に初登場

足立遠元が歴史に初めて登場したのは前述の通り【平治の乱】だと考えられています。

このとき彼は源義朝に従い、長子・義平の麾下で戦ったとされているのです。

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『平治物語』では、平重盛(清盛長男)と源義平が対決した際、義平に従った十七騎の武者のうち”抜きん出た者”の一人として名が挙がっています。

ただし、足立氏については遠元以前の動向がハッキリせず「なぜ源氏についたのか」という点については謎。

遠元の母方の祖先・豊島氏が【前九年の役】で源頼義についていた――という説がありますので、その縁からでしょうか。

『吾妻鏡』での初登場は、治承四年(1180年)10月2日の記述です。

このころ源頼朝は石橋山の敗北から安房に逃れ、房総半島を北上して武蔵に入るところでした。

そこに「前々からの命令に従って、足立遠元が頼朝一行の迎えに来る予定である」と書かれています。

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また、同月8日にも「遠元は日頃からよく仕えてくれているので、以前からの領地をそのまま認める」と安堵を受けたらしきことが記載されています。

吾妻鏡が後年の編纂であること、散逸部分があることを差し引いても、当初からかなり好意的な記述に見えますね。

それだけに、具体的に何を指して「よく仕えている」と評したのか、定かでないところが実に気になります。

一体何をされたのでしょう……。

 


平頼盛「餞別の宴」に出席

足立遠元は、その後は武人というより事務方として登場します。

具体的に何をやったか?というと、

・将軍の寺社参詣

・寺社での行事

・貴人や御家人の宴席

・頼朝の上洛

など、行事の取り仕切りや歓待など、政治体制を固めていく上では欠かせない役割でありますね。

例えば、養和二年(1182年)4月5日、頼朝が藤原秀衡調伏のため江ノ島へ出掛けた際、随行者の一員として名が出てきています。

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また、元暦元年(1184年)6月1日には、平頼盛の餞別の宴にも出席していました。

平頼盛はその名の通り、平家の一員で清盛の異母弟です。

頼朝の助命を嘆願したことで有名な池禅尼の実子でもあり、木曽義仲が京都に攻め入った後、一門の都落ちには同行せず、鎌倉へ亡命していました。

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頼朝が助命されたのは池禅尼だけではなく、当時の出仕先だった上西門院(後白河天皇の同母姉)や、母の実家である熱田大宮司家の嘆願もあったとされています。

しかし、頼朝は「恩を受けた相手とその家族」は過剰なほどの厚遇する傾向がありますから、おそらく池禅尼への謝意として、頼盛を受け入れたのではないでしょうか。

頼盛は鎌倉に着いたとき、武器を持たずに頼朝と対面したそうですので、敵意がないことも明らか。

また、当時の頼朝は新政権と朝廷とのパイプを作るため、官職経験者を一人でも多く求めていました。

そこへうってつけの人が現れたのですから、この面から見ても厚遇する理由は十分です。

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そうしたいくつもの理由があって、頼盛は鎌倉にしばらく留まっていました。

一度京都に戻ったこともあったようですが、再び鎌倉に身を寄せています。

そして平家が滅んだ後、頼朝から朝廷へ取りなし、頼盛とその子息が京都に戻ること、そして元の官職に返り咲くことが認められました。

こうした経緯で、この日、餞別の宴が開かれたのです。

そしてこのとき、濡れ縁に控えていた御家人の一人として、遠元の名が登場します。

他には

小山朝政
三浦義澄
結城朝光
下河辺行平
畠山重忠
橘公長
八田知家
後藤基清

などの名が挙げられており、「彼らは皆、京都に馴染みのある者だ」と記されています。

“京都に馴染み”とは、詳細が記されていないながら、おそらく地方の武士に京都の警備を命じる「大番役」の経験者でしょう。

三年間京都に詰めていなければならないため、金銭的な面や家中統制の面で非常に大きな負担になりました。

しかしその一方で、地方の武士が公家とパイプを作る絶好の機会でもあり、都の文化を地元へ伝えるキッカケにもなっていたのです。

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