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【足立遠元】
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公文所の寄人に就任する
足立遠元は当初から文官として頼朝に仕えていたのか。
頼朝の鎌倉入り、あるいは源義経の参戦などにより、激化していく源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍した記録がありません。
吾妻鏡の中で次に登場するのは、元暦元年(1184年)8月28日のこと。
この日、建築中の公文所に門が立ち、遠元は大江広元・三善善信とともに立ち会っていました。
ここで大庭景能に酒を振る舞われています。
そしてそれから約一ヶ月半後、元暦元年(1184年)10月6日に公文所の寄人(よりうど・よりゅうど)に任じられました。
寄人とは役所の職員のことです。
公文所は、その名の通り公文書を扱う役所で、後に政所(まんどころ)と改称しました。
そのため、別当(長官)の大江広元を始め、他の寄人は皆京都出身者で占められています。
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これらを考え合わせると、遠元はこの時期の武士としては珍しく、文字の読み書きができ、政治(統治)の心得もあったのでしょう。
彼の父が藤原遠兼とされていますので、文化的教育を受けていてもおかしくはなさそうですしね。
あくまで私見ながら、官人出身者たちに関東の流儀や関東武士の気性などを伝え、ときには両者の間に立つクッション役になっていたのかもしれません。
文官的な仕事ができる御家人といえば梶原景時がいますし、関東の実力者という面でいえば三浦義澄など、もっと大身もいます。
彼らではなく遠元が選ばれたのは、記録に残りにくい日常生活上での美点があったのではないでしょうか。
重要な儀式や行事に名を連ね
この後も足立遠元は、派手な手柄や特徴的な逸話はないものの、重要な場面に臨席したり、寺院への文書に署名が残されています。
例えば、元暦二年(1185年)6月7日。
鎌倉へ引き立てられていた平宗盛が頼朝と御簾越しに対面した際、北条時政や大江広元などとともに臨席していました。
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他にも勝長寿院の落慶供養や、鶴岡八幡宮での放生会などに遠元の名が見えます。
また、吾妻鏡の文治二年(1186年)1月28日の記述では、一条能保とその妻(頼朝の同母姉妹・坊門姫)が遠元の邸に宿泊していたとされています。
頼朝も妹夫婦の餞別のため、政子と共に遠元邸へやってきました。
一条能保本人も、頼朝とは浅からぬ縁があります。
彼の祖母が上西門院(後白河法皇の同母姉)の乳母を務めていたのですが、上西門院は、平治の乱で流されるまで頼朝の出仕先でもありました。
そうした頼朝にとってさまざまな縁がある相手の宿所を任されたという点で、遠元への信頼がうかがえます。
これもやはり、遠元が京都慣れしていたからでしょうか。
また、文治二年(1186年)12月1日にはこんな記述があります。
この日、千葉常胤が久々に鎌倉にやってきたので、頼朝が侍所へ行って宴を開きました。
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遠元は小山朝政・三善善信・安達盛長らと共に相伴していて、彼らを指して「宿老」と書かれているのです。
常胤の生年が元永元年(1118年)、他の人々も1130年代前後の生まれですので、久安三年(1147年)生まれの頼朝からすると皆年長者でした。
遠元が年長者として扱われている場面は、文治三年(1187年)9月9日にもみられます。
この日は重陽の節句。
現代ではあまり注目されませんが、当時は菊の花を浸した酒を飲んだり、菊の花についた露を真綿に移しで顔や体を拭ったりして、不老長寿を願うものです。
この年の重陽の日は、比企尼の家の庭に白菊が咲いたので、頼朝と政子が連れ立って訪問し、それに三浦義澄や遠元ら年長の御家人がお供をした、と書かれています。
頼朝の上洛にも随行
次世代の源氏や御家人に関する儀式でも、年長者の一員として足立遠元の名が散見されます。
文治四年(1188年)7月10日には、万寿(後の源頼家)の鎧初めに列席しました。
多くの御家人が着替えの手伝いをしたり、武具を献上している中、遠元はこの日、鎧に乗って乗馬をした後の万寿を馬から降ろし、鎧を脱がせる役を務めました。
さぞかし名誉なことだったでしょう。
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同年7月15日には、勝長寿院で頼朝の父・源義朝の供養が行われています。
遠元は大内善信・千葉常胤とともに実務を担当。
この間、文治五年(1189年)7月には奥州藤原氏征伐に従軍していますが、やはりというかなんというか、武功と呼べるものはなかったようです。
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建久元年(1190年)10月には、頼朝の上洛にも随行しています。
同年11月29日に頼朝が後白河法皇に拝謁する際、遠元は他11人の主だった御家人とともに、狩衣の下に腹巻を身につけて随行したとか。
”腹巻”とは、むろん腹部の保温に使うアレではなく、簡易的な鎧です。
一般的に日本史上でイメージする鎧は”大鎧”といい、肩や脚を守るためのパーツがついています。
これに対し、腹巻はその名の通り、腹部・背部だけを守るためのものですね。
腕や脚はほぼノーガードで兜も付属しませんが、動きやすさが評価され、多くの武士に愛用されるようになっていきました。
この上洛では、後白河法皇の命令で頼朝が十名の御家人を官職に推挙していて、遠元もそのうちの一人に選ばれ、和田義盛や三浦義連とともに左衛門尉の職を受けました。
左衛門尉とは、内裏の門を警備する衛門府の役人のうち、三番目にエライ役職です。
その際、遠元は「藤原足立遠元」と記載されており、ここからも藤原氏の流れをくんでいたであろうことがわかります。
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