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【足立遠元】
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自慢の名馬を頼朝へ献上
建久二年(1191年)6月、一条能保の姫(頼朝の姪)の嫁ぎ先に従う侍の衣装に使う絹を準備する役に選ばれました。
遠元の他、三善善信や三浦義澄などが同じ役割を担当していたのですが、連絡の不備でもあったのか、絹の到着が遅れてしまいます。
当然、頼朝は立腹。
大江広元らが上方で滞りなく女房たちの衣装を用意していたので、その差も目についたのでしょう。
その場は善信が「きっと絹を運ぶ馬が練り歩いているのでしょう」とジョークを言って和ませたため、なんとかなったそうですけれども。
※「練り歩く」と「絹を練る」をかけた洒落
建久二年(1191年)8月には、別のものも用立てています。
この日、遠元を含む16名の御家人が頼朝に一頭ずつ馬を献上しました。
遠元が用意したのは、鴾毛(つきげ)という毛色の馬で、現代の表記では「月毛」となり、淡い黄褐色の毛を持ちます。
平治の乱で平重盛が乗っていた馬の色でもあり、後世では上杉謙信の愛馬「放生月毛」でもよく知られていますね。
美しい色で明るく、戦場では非常に目立ちます。
つまり敵から狙われやすくなるので、それでも乗るというのは自信の表れでもあったでしょう。
このとき遠元以外に、足利義兼・小山朝政・葛西清重・宇都宮頼業が月毛の馬を献上しています。
彼らはいずれも下野~武蔵の御家人であるため、当時この地域で月毛の馬が多く育てられていたのかもしれません。
ちなみに、このとき献上された馬の数と献上した人を毛色別に並べると、
鴾毛 5頭
足利義兼・小山朝政・葛西清重・宇都宮頼業・足立遠元
鹿毛 2頭
小山(結城)朝光・小山(長沼)宗政
栗毛 2頭
土屋宗遠・三浦義澄
黒(おそらく青毛?)
2頭 下河邊行平・梶原景時
黒栗毛 1頭
北条時政
黒鹿毛(おそらく青鹿毛?)
1頭 畠山重忠
青駮 1頭
武田信光
糟毛 1頭
千葉常胤
葦毛 1頭
和田義盛
と鎌倉政権における錚々たるメンバーが揃っていますね。
関東・甲信には古代より公営の牧場が多々存在していたため、皆自慢の名馬を献上したのだろうと思われます。
かなり幸運な晩年だったのでは?
この後も足立遠元は、基本的には文官として働いていたらしく、寺社での式典や供養などの場面で登場します。
建久六年(1195年)に頼朝が二回目の上洛をしたときも随行し、京都の寺社参詣の節でも名前が出てきました。
他の御家人たち同様、建久十年(1199年)1月に頼朝が死去した際や、直後に頼家が将軍職を継いだ後の言動は記録されていません。
同年4月には十三人の合議制に選ばれていますけれども、こちらも特に反応はなし。
頼家の将軍時代中の遠元は、乙姫(三幡)の葬儀に参列したこと、梶原景時の弾劾状に署名したことくらいしか登場しません。
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1130年代生まれと仮定した場合、この時点で70歳近くになっているはずですから、無理もないことでしょう。
ただし、源実朝が将軍になってからは、少しだけ名前が出てくる機会が増えます。
建仁三年(1203年)10月に実朝の鎧初めが行われた際、遠元は小山朝政とともに、鎧や母衣の着用などについて指南。
また、建仁三年(1203年)11月15日に実朝の命で、鎌倉中の主な寺社に奉行が任命された際、阿弥陀堂の担当に選ばれました。
その一ヶ月後には、永福寺などに参詣する実朝に随行したこともありました。
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その後は、元久二年(1205年)の元日に北条時政が行った椀飯(わんばん・この場合は重臣が将軍を饗応すること)の際、引き出物の行縢(むかばき)と沓(くつ)を遠元から実朝に献上したことがあります。
このとき、同じく引き出物の馬を引く役の一人として、遠元の子・元春の名も挙がっています。
遠元本人が出てくる最後の記述は、建永二年(1207年)3月3日。
この日幕府で闘鶏の会が開かれ、遠元も見物に来ました。
闘鶏は8世紀頃には日本に定着していて、平安時代には「鶏合(とりあわせ)」と呼ばれる恒例行事になっていました。
特に宮中では3月3日=上巳(じょうし)の節句に行われ、鶏合は春の季語となっていたほどです。
残念ながら、遠元死去の前後に関する記述は吾妻鏡に存在しません。
1130年代生まれとすれば既に古希を越えており、寿命で穏やかに亡くなったのでしょう。
大河ドラマでは武蔵国の支配を狙う北条時政を恐れ、畠山重忠と共に討たれそうな印象もありましたが、やはりドラマ内で北条政子に「あなたは大丈夫」と言われていたように、危険視はされない存在だったのでしょう。
この時代の幕府関係者としては、かなり幸運な晩年を過ごしたと思われます。
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長月 七紀・記
【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
国史大辞典