建保4年(1216年)11月24日は、源実朝が宋へ渡るため造船命令をくだした日です。
命じられたのは陳和卿(ちんなけい)。
南宋出身の工人(職人)であり、焼け落ちてしまった東大寺の復興も務めるほど“腕のよい職人”という評価でした。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では俳優のテイ龍進さん演じ、その姿を覚えている方も多いでしょうか。
ドラマでは源実朝を相手に涙を流し「前世」などを語り始め、非常に怪しくもあり一筋縄ではいかない雰囲気を漂わせていましたが、実際のところ史実ではどんな人物だったのか?
実朝との関係はいかなるものだったのか?
陳和卿の事績を振り返ってみましょう。
宋の影響を吸収する鎌倉
いつ何処で生まれ、亡くなったのか――生没年が不詳なら、来日した年月日も正確には記録されてない陳和卿。
腕の良さだけは間違いなかったのでしょう。
東大寺大仏や大仏殿の再建に貢献しており、次第に鎌倉へ名を知られるようになりました。
実は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも序盤から登場していて、
「唐から来た」
と源頼朝に注目されています。
「宋」ではなく「唐(から)」と話したことに違和感を持たれた方もいらっしゃったでしょうか。
当時の中国王朝は「唐(とう)」ではないはずなのに、なぜ?
陳和卿の立ち位置を説明するためにも、当時の日中関係を少し確認しておきましょう。
頼朝に限らず『鎌倉殿の13人』の世界では、どの時代の中国王朝も「唐(から)」と呼びます。
例えば梶原景時も、春秋時代・斉の武将である王燭を「唐」と呼んでいましたが、そういう言い方が日本では普通であり、他にも、江戸期に流行した明代の書道家・文徴明や董其昌はまとめて「唐様」(からよう・中国風)と称されています。

文徴明/wikipediaより引用
2012年の大河ドラマ『平清盛』で、主人公の愛用する剣が「宋剣」と呼ばれていたのは例外と見てよいでしょう。
でも、なぜ「唐」なのか?
漢でも随でも宋でもなく、唐になったのは、それだけ遣唐使船による文化吸収のインパクトが大きかったから。
菅原道真の提言により同使節を取りやめて100年以上が経過していましたが、それでもなお唐(中国)の影響は大きいものでした。
唐が無くなった後も、日本との関係は続いていたからです。
では、頼朝や義時たちが活躍した12~13世紀はどうなっていたか?
項目別にいくつか見ておきましょう。
◆経済
12世紀前半に北宋が滅亡すると、日本にとっても大きな貿易の転換点を迎えました。
中国大陸北部にある鉱山が金国の支配下となり、南宋で貴金属の需要が高まったのです。
日本からは「金、銀、水銀、硫黄、刀剣、木材、漆器」などを輸出する代わりに、さまざまな文物が流れ込み、その中でも最大の目的だったのが【宋銭】です。
当時の貴族は「銭の病が蔓延している」と嘆いたほど宋銭が流通。
それに比例するように経済が加熱し、影響は坂東にまで及んでいます。
宋と元は、鎌倉幕府にとって重要な交易相手でした。
※以下は日宋貿易の考察記事となります
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銭を輸入するだけで清盛ボロ儲け!日宋貿易が鎌倉に与えた影響とは?
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◆宋磁
宋代の青磁と白磁は、日本でも熱狂的に受け入れられました。
宋代の磁器は、他に類を見ない特徴があります。
京都を含めた他の地域と比較しても、鎌倉近辺での発掘が圧倒的に多いのです。
御所や御家人の邸宅跡からのみならず、庶民が住んでいた地域からも発掘。
鎌倉の人々にとって宋磁を持つことはステータスシンボルでした。御家人からすれば、宋磁が無いと恥ずかしくて宴も開けないほど、普及していたのです。
◆鎌倉仏教
鎌倉で発達した仏教は、宋で学んだ栄西たちが発展させました。
最先端の教えが広められ、大仏や寺社仏閣もまた進歩してゆきます。
◆朱子学
朱子学とは、北宋の朱熹(しゅき)が確立した儒教の新たな思想です。
『鎌倉殿の13人』の時代ではなく、もう少し後に本格的に普及。室町時代から江戸時代にかけて、政治の理念の中枢にありました。

朱熹/wikipediaより引用
いかがでしょう?
日宋貿易がいかに鎌倉でも重要だったか、ご理解いただけるでしょうか。
実は鎌倉は少し特殊な土地でした。
幕府が興り、そして滅びた以降、政治の中心にならなかったせいか、宋の影響を受けたまま、まるで時が止まったかのような様相を見せたりします。
一例を挙げますと、宋磁です。
前述のように、当時、鎌倉で大流行した宋磁の破片が、今でも浜辺で見つかったりするのです。
では、そんな鎌倉と陳和卿は、どのような経緯で接点を持つに至ったのか?
仏教復興のために渡海した陳和卿
日宋貿易が活発になると、中国で仏教を学びたい日本の僧侶も宋へ渡るようになりました。
当時は航海技術も発達。
日宋間で往復できるようになっていたため、三度も南宋を訪れた浄土宗の僧侶がいます。
重源(ちょうげん)です。

狭山池博物館にある重源のレプリカ像(原品は新大仏寺所蔵)/wikipediaより引用
彼は源平合戦騒乱の中、清盛の命令によって焼け落ちてしまった東大寺の再建に尽力するのですが、このとき協力を求めた相手が陳和卿でした。
平重盛による【南都焼討】が起きたのが治承4年(1180年)12月28日のこと。
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南都焼討を実行した平重衡|なぜ清盛は東大寺や興福寺を攻めたのか
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現代の浙江省(せっこうしょう)が出身地とされる陳和卿が、弟と共に来日を果たしたのは12世紀末とされます。
大仏殿の復興は、日本の国家的プロジェクトゆえ、重源の依頼を受けた陳和卿も、凄まじいプレッシャーにさらされたでしょう。
『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇が死の間際、建久元年(1190年)に大仏殿再建を果たしたことを回想しています。さほどに大々的な事業だったのです。
だからでしょう。鎌倉に新たな都を作る源頼朝が陳和卿との面会を希望するのは自然なことであり、そのチャンスは建久6年(1195年)に訪れました。
配下の者たちを連れ、上洛を果たした頼朝は、東大寺再建に尽力した陳和卿との面会を希望します。
しかし……。
「平家と戦った際に、多くの人を殺した。弟までも死に追いやった。そんな人間と会いたくはない」
そんな理由で将軍である頼朝が面会を断られたのです。
しかも、頼朝が陳和卿宛に届けた贈り物も、寺社造営や寄進に使えないものは全て返却するという徹底ぶり。
面会を断られた頼朝が落ち込む様子が『鎌倉殿の13人』でも描かれていたのを覚えていらっしゃるでしょうか。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ/wikipediaより引用
このとき、陳和卿と対比されるようにして、頼朝からの贈り物を嬉々として受け取り、便宜を図る朝廷の人々も映されていました。
陳和卿の妥協を許さぬ織り目正しさは、頼朝にとって印象深かったことでしょう。
しかし、その後の陳和卿は、なかなか日本社会に馴染めなかったようです。他の寺社勢力の反発もあり、受け入れられなかったようで。
むしろ、その名は、鎌倉の歴史を記した『吾妻鏡』で印象的に登場します。
宋へ渡る夢
陳和卿に面会を拒絶された源頼朝はその後、建久10年(1199年)1月に急死。
長男である源頼家も追い詰められるようにして亡くなり、三代目の将軍には頼家の弟・源実朝が就きました。建仁3年(1203年)10月のことです。

源実朝/Wikipediaより引用
その約13年後の建保4年(1216年)6月8日――鎌倉に陳和卿が現れました。
頼朝との面会は断ったはずの唐人が急にどうしたことか?
実朝は、陳和卿の唐突な申し入れに困惑しつつ、6月15日に面会を果たします。
と、陳和卿が実朝の顔を拝み、泣き出すではありませんか。
実朝が驚いていると、陳和卿は語り始めます。
「あなたは昔、阿育王山で僧侶をしておられました。あなたこそ、私の師父であったのです……」
実朝はさらに驚きました。
5年前に同じ内容の夢を見ていたのです。そのことを誰にも話したことはありません。
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よし、私は前世に住んでいた宋へ向かおう!
実朝は決意し、この年の秋にかけて宋へ渡ることのできる唐船(からふね・貿易船)の建造を命じます。
それが建保4年(1216年)11月24日のことでしたが、
「そのような無謀なことをなされてどうします!」
と北条義時と大江広元が反対したと『吾妻鏡』には記されています。
計画は、それでも進められてゆきました。
そして翌建保5年(1217年)4月17日――完成した唐船が、由比浦に進水。
実朝の夢を乗せた船は相模湾へ……と出向く前に遠浅の浜にひかっかってしまい、座礁してしまうのです。
浜には、無惨な船の残骸だけが残され、その後、陳和卿の行方も不明となってしまいました。
実朝の渡宋計画は無謀だったのか?
『鎌倉殿の13人』では「平清盛のように日宋貿易に取り組みたい」と頼朝が語る場面がありました。
何気ない話のようで、実は重要な伏線かもしれません。
実朝は、本当に「生まれ変わり」を信じて、交易船に大金を投じたのか?
北条義時や大江広元の反対を押し切れたのは、なにか理由があったからではないのか?
そこで考えられるのが日宋貿易です。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
高価で手っ取り早くカネになる宋磁や宋銭を運ぶ船なら、回収の見込みは十分にある。
「前世」なんてロマンチックな夢だけでなく、お金という現実も見せたからこそ、実朝の要求も通った可能性は否定できないでしょう。
彼は文弱な若者というイメージが濃厚でしたが、それは『吾妻鏡』の誇張だと指摘されたりもする。
夢見がちな青年の現実逃避が失敗しました、てへへ……で済む話とは思えません。
実朝の不幸は、由比ヶ浜が遠浅であることを考慮できなかったことでしょう。
これは船の建造責任者である陳和卿の責任でもあります。
平清盛は、日宋貿易強化のため、大輪田泊(おおわだのとまり)の整備を貿易船建造と共に進めました。
実朝の計画も、港の整備と一緒に行っていたら結果は異なったかもしれません。
実朝の唐船が座礁した16年後の貞永元年(1232年)――この失敗を踏まえ、北条泰時は由比浦のはずれに人工島である和賀江島(わがえじま)という港を築きました。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵
幕府はこうして宋および元との交易が可能となったのです。
つまり、実朝には、十分に先見の明があったと言える。それを『吾妻鏡』では荒唐無稽な陳和卿との転生譚にして、義時や広元の反対を強調することで実朝の実力を薄めているとも思える。
そういう意味では、話のダシに使われた陳和卿も、なかなか不幸な登場でした。
実朝と彼の関係には、美点があると思える。
もしも実朝が、父である頼朝のように残酷だと見なされていたら、陳和卿は面会を希望しなかった可能性はあります。
一方で、陳和卿ほどの人物でも、日本に根ざしていた既存の宗教勢力からは疎んじられました。
彼の人間性や技量ではなく「新入りで繋がりがない」という理由からです。
そんな陳和卿を、実朝は偏見なく重用しました。
二人で交易船の建造にも漕ぎ着けた。
源実朝は貿易重視という点においては平清盛の後継者であり、日明貿易を重視した足利義満を先駆けていたとも言えるのではないでしょうか。
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【参考】
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon)
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon)
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon)
他






