鎌倉幕府の役職

御家人からもお茶の間からも人気の高かった和田義盛(左)と上総広常/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

「幕府」という言葉もなかった鎌倉幕府の役職~執権や侍所は何をしていたのか

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鎌倉幕府成立で日本史の個性は決まる

日本の歴史は、中国を手本にしてきました。

いわばミニ中国としての政治体制を整えて【律令制】を導入したのであり、いかに重要視していたか?というのは、当時の人々が官職に使用した「唐名」からもわかります。

律令制下の官職名や部署名を、中国の官位名に当てはめていたのです。

わかりやすい例が『鎌倉殿の13人』でもあります。

ドラマの中で三浦義村は「武衛」を「友達」という意味だとして上総広常を騙し、宴席を盛り上げるよう仕向けました。

上総広常

上総広常の錦絵(歌川芳虎・作)/wikipediaより引用

漢籍知識と教養のあった畠山重忠は、義村の話を聞いて「おかしい……」と気づいています。

平安末期~鎌倉初期の坂東武者では、その手の知識に対し、個人差が大きかったのですね。

「みんな武衛だ!」

このセリフはドラマのファンに愛されましたが、実は鎌倉の政治制度を考えるうえでも重要です。

中国と比較すると、まるで日本は歴史の実験場。

制度上の転換点を見ていくと、中国では抑止政策が取られていたことが、日本では堂々と横行していることがあります。

一つずつ見て参りましょう。

 


外戚政治

君主の妻の実家が権力を握る――外戚を中国では厳しく律しようとしました。

例えば前漢・劉邦の皇后である呂雉(りょち)の専制が悪しき先例として歴史に刻まれています。

そこで前漢・武帝は太子を産んだ鉤弋夫人を処刑し、外戚の台頭を未然に防ぐという残酷な手段を用いました。

しかし、結局、後漢も外戚の台頭により弱体化してしまう。

三国志』序盤には、その象徴である何皇后と兄の何進が登場します。

北朝の北魏では【子貴母死】として、後継者の母を殺害することが制度化されました。

一方で日本はどうか?

外戚政治である【摂関政治】があたかも当然のように慣例化していますね。

摂関家出身の慈円は『愚管抄』に日本は「女人入眼(女性が決める)」と記しており、それがごく当たり前のこととなっていました。

結果、将軍の外戚である北条氏が執権となり、幕府の実権を握ったのです。

日本で意図的に外戚阻止を実行しようとした可能性があるのは、江戸幕府の将軍家です。

京都公家出身である徳川家光の側室・お万の方は堕胎させられていたという説もありました。

徳川家光/Wikipediaより引用


傀儡政治はあっても易姓革命はない

『三国志』でおなじみの曹操は、後漢最後の皇帝である献帝を擁立し、政治権限を盤石のものとしました。

曹操は三公(司徒・太尉・司空)に分立されていた権限を一元化し、丞相を復活。

実質的に独裁をした上で、皇帝を傀儡にしていたのです。

このやり方は、侍所と政所を握り、執権となり、源実朝を傀儡とした北条義時と似ています。

しかし、ここから先が大きく異なる。

曹操のあとを継いだ曹丕は献帝を禅譲させ、魏王朝を立てました。

一方で北条氏は、あくまで将軍を擁立し続け、執権にとどまるのです。司馬懿のやり方と同じですね。

これは朝廷に対しても同じことが言えます。

幕府が成立しても、朝廷を滅ぼし、取って代わろうとまではしない。

日本では、中国にあった【易姓革命】はなかったのです。

 

文官上位の崩壊

中国と朝鮮半島では【文官上位】が徹底しています。

科挙ができて以来、この試験に通ることが出世ルートの定番。

中身は文官の選別試験であり、これを突破してこそ権力に近づける仕組みがありました。

そうして科挙を突破した頭脳明晰な官僚たちが、国の仕組みや思想を作り上げてゆくんですね。

同システムは宋代で成熟してゆきますが、宋はあまりに軍事力を軽視しすぎたため、金や元に敗れてしまったと指摘されます。

宋が文官上位を徹底したのには理由があります。

唐の時代に起きた【安史の乱】です。

唐では辺境警護のために置かれた節度使が強大となり、安禄山と史思明によって内側から食い尽くされました。

安禄山/wikipediaより引用

宋では、同様の悲劇を繰り返さぬため、シビリアンコントロールを徹底したのです。

それができなかった王朝はどうなるのか?

日本における【承久の乱】が示していると言えるでしょう。

朝廷に武力はほぼありません。

文官上位を徹底し、武士の台頭を防がねばならなかった。

しかしそれに失敗したから、『愚管抄』でいうところの「ムサノ世(武者の世)」が到来してしまったのです。

 


文武融合

文官上位が徹底しているのは、文官と武官の区別ができていたからといえます。

それが鎌倉幕府によって崩れます。

京都から鎌倉へ向かった大江広元ら文士も、子孫の代になると自己認識が「武士」になります。

弓ができないとバカにされるから、文士の子孫たちも弓術の練習に励む。

一方で、武士たちも教養を身につけ、うまい和歌を詠んで歌集に選ばれたいと思い始める。

仏教に帰依するとともに、漢籍を読みこなすようになる。

いつのまにやら鎌倉では「智勇兼備の武士」という新たな存在が登場してくる。

彼らは、本来は文官の持ち物であった扇子を手にすると、青磁の茶碗を愛用し、仏教を学び、優雅に歌を詠むようになりました。

武士はハイブリッド型に進化したのです。

 

ムサノ世が到来してこそ日本の歴史

文官と武官が溶け合い、支配者として君臨する――かくして日本の歴史における、新たなる時代が生まれました。

大江広元の四男・毛利季光の妻は三浦泰村の妹です。

宝治元年(1247年)――北条氏と三浦氏が対立した【宝治合戦】が勃発。北条につくべく御所へ向かおうとしたところ、妻が夫の袖を掴みました。

「それが武士のすることなの?」

この一言に打たれた毛利季光は、義兄の三浦方につきます。

結果、敗北し、一族は滅びに瀕してしまうのでした。

このやりとりから、文士・広元の子供の代では「武士」としてのアイデンティティを守るため、命をも捨てるようになっていたことがわかります。

利益よりも、命よりも、名を惜しむ――。

毛利一族の大半は滅びたものの、残った者の子孫がやがて西国に辿り着き、そして一族から毛利元就が出ます。

長州藩主となった毛利家は、江戸時代、鎌倉にある大江広元の墓を熱心に手入れしていました。

そんな長州藩の誇りは、朝廷と近いこと。

幕末に錦旗を掲げ、王政復古の明治維新を成し遂げます。

とはいえ明治以降も、長州藩出身者たちは武士であることを誇りに掲げています。日本史の特異性はかくして現在まで続いているのです。

日本の歴史は、科目から「日本史」と「世界史」に分かれていて、かえって日本独自の個性がわかりにくくなっています。

あえて他国、特にアジアの国々と比較することで、日本史の特性は見えてくるでしょう。

鎌倉幕府の成立は見切り発車の連続であり、制度的にかなり混沌としていた。

そうした渦の中から武士が出現してくる――その様の面白さこそ、歴史を学ぶ醍醐味といえるのではないでしょうか。

それをドラマに表現した『鎌倉殿の13人』は見事な出来という他ありません。

鎌倉時代を学ぶことは、日本の歴史の旨みを味わうこと。

ドラマも史実も、何度味わってもよいのではないでしょうか。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
野口実『図説鎌倉北条氏』
細川重男『論考日本中世史: 武士たちの行動・武士たちの思想』
佐藤和彦・谷口榮『吾妻鏡事典』
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝』

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