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【鎌倉幕府の役職】
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守護
守護とは、軍事・警察権を行使する地方官です。
治安維持のために設置され、国ごとに各一人、東国出身の有力武士が任命されました。
地頭
幕府の御家人が任命されます。
各国の荘園や公領に設置されており、土地の管理や年貢の徴収、治安維持を行いました。
国司
朝廷から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称。
貴族のみが就任し、鎌倉御家人が任じられることはありません。
源範頼や源義経は、あくまで源氏であるから任じられた例外とされました。
和田義盛も国司の座、上総介に任じられたいと願うものの聞き入れられず、これが不和につながってゆきます。
源氏将軍
源頼朝、源頼家、源実朝の三代にわたる源氏の血を引く将軍のこと。
外戚として権力を握った北条氏を否定できない権力者です。
摂家将軍
実朝の死後、後鳥羽院から親王将軍の下向を拒絶された鎌倉幕府。
摂関家から迎えた将軍を擁立しました。
藤原頼経と藤原頼嗣です。
彼らの登場により、鎌倉は再び割れてしまいます。
将軍と執権のどちらに就くのか?
そんな単純明快な構図ではあったのですが、有力者・三浦光村が藤原頼経の近習であったことから、後に、三浦一族の滅亡を引き起こす【宝治合戦】まで発展。
摂家将軍もわずか二代で終わりました。
三浦までもが北条に滅ぼされた宝治合戦が壮絶~鎌倉殿の13人その後の重大事件
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親王将軍
建長4年(1252年)から幕府滅亡まで、およそ80年にわたり、京都から関東に下向した親王による将軍が続きます。
幕府の文書は一貫して「鎌倉殿」、すなわち将軍名義で出され続けました。
【得宗専制政治】と呼ばれる北条惣領家の政治が続いても、あくまで彼らは執権に留まり、将軍とはなりません。
たとえ傀儡でも、至高の存在として将軍は必要でした。
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