鎌倉幕府はなぜ滅びてしまったのか?
一般的な歴史の授業では「元寇後に不満を持った武士たちが蜂起したから」と習いますよね。
あるいはヤル気満々の後醍醐天皇に始まり、新田義貞や足利尊氏と言った主要キャラを思い浮かべることでしょう。
しかし、です。
2度目の元寇1281年から幕府滅亡1333年までの間には、単純に52年もの猶予があったワケで。
要は、その間の対応がマズかったのでは?とも考えられます。
今回は、正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日に「腹切りやぐら」と呼ばれる場所で自害した北条高時の歴史を振り返ってみたいと思います。
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記録の乱れは幕府の乱れ?
高時が生まれたのは、嘉元元年(1303年)のこと。
元寇が終わった後も幕府は九州の守りを固めていましたが、20年以上も経過したこの頃には『さすがにもう来ないんじゃね?』と考えていたことでしょう。

蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用
しかし、幕府内には別の面で不穏な空気が漂いつつありました。
恩賞を得られなかった西国武士の多くが、幕府や北条氏への反感を募らせていたのです。
そんな乱れた時代の影響でしょうか。
高時の代で、幕府や北条氏の公的な記録がテキトーになってくる――という傾向が見てとれるようになりました。
例えば、重要であるはずの元服の様子ですら、ハッキリした記録が残っていません。
延慶二年(1309年)に元服式を行ったことはわかっていますが、それ以外はサッパリ。父である貞時のときも似たような状況ながら、多少の記述はあったのです。
それがほぼ完全にないのですから、やはりおかしな状況でしょう。
父の貞時同様、将軍から偏諱を受けておらず
ときの将軍は、これまた鎌倉幕府最後となった守邦親王です。
慣例に従えば、将軍に烏帽子親を務めてもらい、名前に一文字もらう(偏諱)のが順当なところ。
しかし、これまた父の北条貞時同様、高時は偏諱を受けていません。
祖父に当たる北条時宗(元寇のときの権力者)の時代以前なら

北条時宗/wikipediaより引用
「北条氏の権勢ゆえに、お飾りの将軍の権威や面子を無視しても問題ない」
と考えることもできました。
が、高時の時代はそうとは言い切れません。
ここで多少、将軍=皇族を敬う姿勢を見せるなり何なりしておけば、幕府や北条氏の延命くらいはできたかも……その意味があるかどうかはさておき。
北条氏に仕える「御内人(幕府に仕えるのが御家人)」の面々も、そこには気付かなかったのでしょうか。
長い時間、専制を続けてきたせいで油断が生まれ、体面や体裁を忘れてしまっていたのかもしれません。
「高」の字はよく使われるものですし、北条氏の祖先とされる平高望(高望王)からもらったもの、と考えれば、それはそれで筋が通りますが……。
実際、こちらの説を支持されている学者さんもいらっしゃるようです。
あっちこっちで執権職がたらい回し
そんなこんなで何だかあやふやに大人扱いされるようになった高時でしたが、ゆっくりもしていられませんでした。
応長元年(1311年)、父・貞時が亡くなったのです。
家督を継いで九代得宗(北条氏本家の当主)になったのとはいえ、年齢は満8歳。
執権という重職を遂行するのは、とてもじゃないけど不可能です。
亡き父・貞時は、正安三年(1301年)に一応執権職は退いておりましたが、高時の成長を待ちながら、親戚のあっちこっちで執権職をたらい回しにしておりました。

永仁の徳政令を施行した9代執権・北条貞時/Wikipediaより引用
中には、貞時と政治的に敵対していた人もいたほどです。
まぁ、この頃は、御内人の権力が強い時期でもあったので、執権職であっても将軍同様に形骸化しつつあったのですが……。
北条貞時の記事でも触れましたように、
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北条貞時と永仁の徳政令~戦乱で凹んだ御家人たちは借金チャラで救えるのか
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彼は今際の際に、御内人・長崎円喜(ながさきえんき)や、御家人・安達時顕(あだちときあき)など、代表格の配下に対し、
「高時を守り立ててくれ」
というようなことを言い遺して亡くなったといわれています。
もしかしたら執権についてはどうでもよく、息子が無事に育つことだけを考えていたのかもしれません。
せめて健康に育てば、後は本人の頭脳と後ろ盾次第で、どうとでもなりますからね。
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