戦国時代の戦術・戦略は、お城がすべて。
城さえわかれば、武将の性格だってわかる、一、二、三、ダァーーーーー! とはフザけているようでいて、実は結構、真実だったりします。
例えば【川中島の戦い】。
一見、城とは無関係の戦いでも、その前後は城をめぐる争いの連続で、そうした駆け引きから武田信玄の緻密さや上杉謙信の自信と焦りが垣間見えたりするものです。
では、大河ドラマ『麒麟がくる』で主人公だった明智光秀はどうか?
一般的に光秀のお城イメージはあまり強くはないですよね。
しかし宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、明智光秀についてこう述べています。
「(前略)築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で……」
えっ、築城!?
優れた建築手腕の持ち主!?
初めてこの文言に触れたとき、城マニアの私は思わず「フロイス、わかっとるやんけ!!」と震えました。
そうです、織田軍団一の出世頭・明智光秀は、ライバルの豊臣秀吉に負けず劣らずの「お城野郎」……いや、失礼、築城名人だったのです!
そこで本稿では光秀の前半生で非常に関わりの深いとされる「明智城」ならびに弘治2年(1556年)とされる【明智城の戦い】を見て参りましょう。
光秀と明智城には何らかの関係がありそうだ
明智光秀の前半生はほぼ謎に包まれています。
令和の時代になっても新たな記録はほとんど見つかっておらず、例えば現在発売されている書籍も、大半は『明智軍記』という江戸時代の軍記物(小説)を頼りに推測するようなカタチで描かれております。
こればかりは仕方ありませんが、一方で城というのは確実に歴史の跡が残っていますので、本稿ではそこから「光秀と城」そして「明智城の戦い」へと迫ってみたいと思います。

明智光秀/wikipediaより引用
明智城は、美濃の国(現在の岐阜県可児市)に城跡が残されております。
別名「長山城」とも。
光秀と明智城には何らかの関係がありそうだ。いや、おそらくここの出身に違いない。そうでなければ光秀が明智を名乗るかヨ!!
ということで、学問的には全く証明されていませんが、明智城は明智光秀の出生の地とされています。
ちなみに明智光秀の出生地でもう一つ有力なのが、岐阜県恵那市の明智城ですが、こちらは色々と学問的に反証されていて、現実的ではないとされています。
最近では「近江出身説」も出てきました。
一体いつになったら出身地が特定されるのやら……。
要衝を押さえる明智城
城にはそこに立つ理由が必ずあります。
明智城もこの地に築城された理由が必ずあります。
そんな観点で地図を見ていくと、もう見えてきましたね。
この地は京の都と東日本を結ぶ、古代からの「東山道」が通る交通の要衝でした。江戸時代は「中山道」として有名な古来より日本の主要街道の一つです。
戦国時代の東山道と江戸時代の中山道は、木曽川の流路の変更などもあり、渡河ポイントは違いましたが、いずれの「渡し」を通過しても、東国に向かうには「明智」の地をかすめるように通りました。
このように明智氏の支配地域は東濃地域の豊かな石高だけでなく、人やモノが通過する経済の大動脈をも押さえる地域だったのです。
明智城は東山道に並行して東西に長く伸びた丘のような小山を利用して築城されています。
大手門は街道へ通じる北向きで、東西に広がる山の中心に本丸があり、両翼には曲輪があったと推定。
長山の北側の麓には現在でも「大屋敷」や「東屋敷」、「西屋敷」といった地名が残り、平時の居館があったことを偲ばせます。
……と、一通り明智城の立ち位置を確認したところで、話題を大河ドラマに移し、沢尻エリカの降板(配役は川口春奈に変更)で注目された「帰蝶」に注目してみたいと思います。
彼女は「斎藤道三の娘」で「織田信長の妻」という重要な役だと説明されました。
しかし、ちょっと待ってくださいよ。
明智光秀のドラマで「帰蝶」がなぜ重要なのか?
光秀と帰蝶がいとこ同士の可能性
明智氏は土岐氏の庶流(親戚筋)と言われています。
元々、室町時代の美濃国の守護は土岐氏であり、斎藤道三による「国盗り」によって支配権を奪われました。
こうした経緯から、土岐氏というと下克上で台頭してくる戦国武将にフルボッコされる旧支配層――そんな脆弱なイメージですよね。
しかし、ナメてはいけませんよ。
土岐氏は鎌倉時代から続く武家の名門であり、室町幕府では超VIPです。
一説によると、土岐氏の親戚である明智氏の支配地域だけでも7万5千石ほどあったと試算されています。
本家の土岐氏は斎藤道三に国を乗っ盗られますが、明智氏はむしろ積極的に道三を受け入れ、婚姻関係を結びます。
道三2番目の正室(最初の正室は死去)となる「小見の方」は、光秀の父・明智光綱と兄妹だったとも言われています。

小見の方イメージ(絵・小久ヒロ)
この小見の方と道三との間に生まれた娘が「帰蝶」なのです。
「濃姫」とも呼ばれる、織田信長の正妻ですね。
諸説の一つが正しければ、光秀と帰蝶は、いとこ同士ということになります。
血縁関係についての確証はまだ世に出てきておりません。
帰蝶もまた謎多き女――学問的にはハッキリとは言えない存在です。
義昭と信長を繋ぐときに血縁が活きた!?
彼女を「光秀いとこ」と設定しておくと、便利なことがもう一つあります。
それは足利義昭と織田信長の【つなぎ】です。
光秀は、明智城落城後に諸国を放浪し、越前の朝倉義景に仕えます。

朝倉義景/wikipediaより引用
後に、同じく朝倉家に居候をしてきた足利義昭と知り合って織田信長を紹介、足利義昭は信長の助けを借りて京都を奪還します。
一連の流れは各種史料から確実とされていますが、では、なぜ光秀は「義昭と信長の仲介をできたのか?」という点については学問的な証拠が揃っておらず説明が付きません。
そこで、信憑性にはやや欠けるものの【光秀と帰蝶がいとこ説】を採用すると、
【光秀――帰蝶――信長】
というラインで、歴史の歯車が一気に動き始めますね。
「帰蝶(濃姫)」が一話から登場して、撮影をやり直す必要があったのも頷けます。
「重要」どころか「非常に重要」だったんです。
ということで、話は少し逸れましたが、光秀と帰蝶はいとこ説を採用すると、織田信長と明智光秀の奇妙な縁を感じすにいられません。
同時に織田家の外交戦略も透けて見えます。
そして明智城の戦いへ
このころ織田家は、ピンチに立たされておりました。
尾張の東には今川義元。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
北には斎藤道三。

斎藤道三/wikipediaより引用
二方面にビッグネームな強敵がおり、全面対決を避けたい織田家は、美濃の斎藤家と婚姻で結ばれつつ、明智氏とも縁を持つことで東濃方面も押さえることができる――そんな一石二鳥の婚姻政策を進めていたのです。
そこで斎藤道三の娘・帰蝶と織田信長による婚姻が成立したのですが、
戦国時代はそう簡単にはいきません。
というか道三自身が静かにしていません。
強引な国盗りでも美濃の武士たちはついていくのがやっとなのに、家督を息子の斎藤義龍に譲ってもなお政治に口を出し、挙げ句の果てには義龍より年齢の離れた弟2人を自身の後継者にすげ替えようと目論みます。
この道三の明らかな失政により、義龍との間に争いが勃発(長良川の戦い)。
家中を二分するならまだしも、家臣の殆どが義龍の味方するという、絶望的な状況で道三は義龍に討ち取られてしまいます。

斎藤義龍/wikipediaより引用
そんな状況の最中、道三寄りで静観したのが明智氏でした。
当時の明智城主・明智光安は光秀の叔父。
光秀の父・明智光綱は早くに死んでしまい、光安が幼い光秀の代わりに明智城と明智家を守っていたのです。
しかしながら、この辺の史実も確実とは言えません。
光秀は、母と美濃を出て明智城にいなかったとか、道三の近習として稲葉山城にいたとか、そもそも光秀は勝手に明智を名乗っている全くの別人だとか、とにかく光秀の前半生は闇の中なのです。
史実として分かっていることは、義龍の派遣した大軍によって明智城が攻められて落城。
城主の光安は城に火を放ち、明智一族とその家臣団がほぼ絶滅したということです。
このとき光安の息子と言われる、明智光春(後の明智左馬助こと明智秀満とも)らを引き連れ、光秀が命からがら美濃から逃げ出したと言われていますが、その真相も分かりません。

歌川豊宣の『明智左馬助の湖水渡り』/wikipediaより引用
守備側がほぼ全滅するほどの城郭戦は、戦国時代であっても非常に稀なケースです。
城マニアとしては「城郭戦で絶滅した」という記録だけで妄想は膨らみ、その城の価値がグンと上がります。
ではなぜ、明智城は攻撃されたのか?
明智城の戦いは見せしめで行われた?
基本的に攻城戦まで行ってしまうような戦いは、いつの時代もコストが高くつくのでやりません。
築城に目的があれば、戦いにも必ず目的があります。それを見ていきましょう。
「長良川の戦い」で道三を討ち果たした斎藤義龍は、既に目的を達成しています。
無理をする必要はないはず。
それでも義龍は明智城攻めにこだわりました。
家臣の殆どは「明智は説得すれば必ず降りる。今さら力攻めをする必要もない」と提案しましたが、義龍は「見せしめ」による東濃地域の支配力強化を狙っていたのかもしれません。
結局、家臣の説得も聞かず、長井道利を総大将として遠征軍を明智城に派遣したのです。
長井道利の遠征軍を迎え撃つ、光秀の叔父・明智光安は、明智城に籠城しました。

『麒麟がくる』明智光安イメージ
攻城戦の模様は残念ながら現代に伝わっていません。
難攻不落とは言い難い、つまりは攻めやすい明智城は四方八方からの攻撃にさらされ、最終的に光安が城に火を放って自害したと言われています。
残念な明智城の構造
明智城は現在の地形図を見ても、それほど堅固な城には見えません。
詰めの山城としては緩やかで、尾根にも切岸などの工夫がない。本当は近所の「顔戸城」だったなんて説もあります。
城としては緩すぎて明智の城が本当にここだったのか?という疑問も納得できるものです。
また、明智城は数本ある尾根の一角のみに築城されたことが分かります。
あと少しだけ工夫しておけば、明智城が山城として完璧な構造になれたのに……非常に残念でなりません。
この城は、西に向かって逆Cの字をした馬蹄型の一端を利用して築城されています。実は馬蹄型というのは、山城として最強の城を築けます。
近江浅井家の小谷城などがまさにそう。

小谷城
互いに向かい合う山は連携しやすい曲輪となり、袋小路に入った攻城側を少ない兵力でも四方八方から攻めることが可能となります。
しかし明智城は、北側の尾根や東側の高い山を城郭に取り込んだ形跡が見られません。
財力や人員の大小によっても城の大きさは決まりますので、一国の領主ではない明智氏にはそこまで拡張できなかったのでしょうか。
基本的に要塞の維持は莫大なコストがかかります。
浅井家のような規模の領主にならないと城の大規模化は不可能です。
このように、明智城で踏ん張ろうにも、城の構造が戦闘向きに工夫されていなかったこと、互いに連携できる味方が城外にいなかったことが最大の敗因です。
本能寺に繋がる経験だった?
籠城戦が、後の明智光秀にどのような影響を与えたかは分かりません。
しかし「これでよし」とされていた今までの城郭構造では、大規模化する戦国大名の攻撃には耐えられないということを学んだのではないでしょうか。
さらには、不人気あるいは不安定な総大将(道三)に最後まで付き従うことの危うさ――それを経験できたことが、後の本能寺の変に繋がったのかもしれません。
いずれにせよ、重要なことは明智光秀の前半生は一切分かっていないということです。
「明智城の戦い」に、光秀の「光」の字も出てきません。

明智光秀/wikipediaより引用
しかし学問的には一切分かっていないというのが、逆に妄想を膨らませる余地があるので大河ドラマ向きなのかもしれません。
そこが明智光秀の魅力でもあるのでしょう。
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