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【北条高時】
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政務より仏教に興味あり!?
父の死後5年が経った正和五年(1316年)、高時はようやく十四代執権となりました。
①北条時政(1203-1205年)
②北条義時(1205-1224年)
③北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
⑤北条時頼(1246-1256年)
⑥北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
⑧北条時宗(1268-1284年)
⑨北条貞時(1284-1301年)父
⑩北条師時(1301-1311年)たらい回し始
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)たらい回し終
⑭北条高時(1316-1326年)←今日の主役
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)
※( )内は在職期間です
この頃には御内人も世代交代しており、円喜の嫡男・長崎高資(たかすけ)が中心となって政務を行っていました。
中継ぎだった三人の執権が御内人に押されてしまっていたのを見て育ったためか、高時はあまり政務に興味を持たなかったようです。
高資が頼りになりすぎたんですかね。
その代わり……といっていいのかどうかビミョーですが、高時には仏僧との逸話がいくつか伝わっています。
例えば、日蓮の弟子・日朗に「ウチで他の宗派と問答してみろ」と命じ、【鎌倉殿中問答】を執り行いました。

日蓮聖人(長谷川等伯)/wikipediaより引用
日朗もこの時点で73歳という高齢だったため、その弟子の日印に任せられてます。
問答は文保二年(1318年)12月から、元応元年(1319年)9月までという、なかなかの長期間にわたって実施。
最終的に、日印が他宗派の僧侶をことごとく論破したため、鎌倉幕府は日蓮宗の布教を公的に認めたといわれています。
ちょっと前までは日蓮やその弟子たちが流罪になっていたのですから、かなりの躍進ぶりです。
この問答の記録は、日印の弟子・日静(にちじょう)がつけていました。
他の記録にこの問答のことが記述されていないというあたりに、少々怪しさも漂いますが……。
まあ、鎌倉幕府自体の記録がテキトーになっていた頃ですから、他の記録が乏しくても仕方のないところではあります。
日蓮宗にとっては、自分たちの宗旨をアピールしたり、後世に「だからウチはスゴイし正しいんだよ!」と伝える一代チャンスだったでしょうから、きちんと記録するのも当然ですね。
東北で安藤氏の乱が勃発
一方で、物騒な出来事もありました。
元亨二年(1322年)頃に【安藤氏の乱】あるいは【蝦夷大乱】と呼ばれる戦が東北で起きていたのです。
遡るほど半世紀近く前の文永五年(1268年)、津軽の地で代官の安藤氏がブッコロされました。
年号を見てお察しの通り、日本が元の驚異に晒されていた頃であり、やはり記録が乏しく詳細は不明ながら、北方へも元から何らかの圧迫が加えてられていたようです。
しかし、蝦夷(えぞ)と呼ばれる東北~北海道の人々には、鎌倉幕府の事情や元=モンゴルの驚異についての情報などほとんどありません。
それなのに、代官が「なんかヤベーことになりそうだから、戦のために税をもっと払え!」と言われたそうで。
蝦夷の人々がブチ切れ、安藤氏を襲撃した……というところのようです。
まぁ、そりゃ、いきなり税を要求されてもワケワカメですしね。
また、文保二年(1318年)あたりには、代官である安藤又太郎と、いとこの安藤五郎三郎の対立が激化すると、出羽では蝦夷が蜂起するという、上も下もドッタンバッタン大騒ぎ(マイルドな表現)状態になりました。
病気を理由に出家って……
安藤氏の内紛については、幕府もほうっておくわけに行かず、北条氏によって裁きが下されることになります。
この時点で、実権を握っていたのは御内人筆頭の長崎高資です。
彼が真面目に仕事をしてくれればよかったのですけれども、なんと高資は、又太郎と五郎三郎の両方から賄賂を受け取るというウルトラCの手腕(笑えない)を披露しました。
当然のことながら余計に話がこじれ、蝦夷の蜂起は勢いを増すばかり。
代官をすげ替えても自体は収まらず、何年も戦が続きました。
幕府から宇都宮高貞などが差し向けられ、事がやっと収まったのは、実に嘉暦三年(1328年)のこと。
鎌倉幕府が倒れる、わずか五年前です。
史料が少ないこともあって、この時代の蝦夷のことはほとんど語られません。
しかし、そもそも幕府とは、東国を支配する名前を冠した征夷大将軍がトップの組織です。
それが蝦夷の人々や彼らの住まう地域を治められない……というのは、かなりマズイ事態のはずでした。
公家の日記に、乱のことを記したものがなさそうなので、上方にはあまり伝わっていなかったのかもしれません。
が、数代に渡る頻繁な執権職交代とやる気のなさ、御内人の専横ぶりは目に余ったことでしょう。
しかもです。肝心の北条高時が、病気を理由に出家してしまいました。
それが嘉暦元年(1326年)ですから、1322年頃に始まった蝦夷の乱が、まだまだ治まる前のことです。
ついでにいうと、京都では大覚寺統・持明院統のどちらが皇位を継ぐかで揉めに揉め、幕府にも意見を尋ねる使者が来ていた頃です。
このタイミングでの出家となると、
「ワタシに乱や皇位継承問題をまとめる力はありましぇーん! 責任を取るつもりも(ry」
と言っているも同然。
小さい頃から病がちではあったようですが、ここまでの間に大病をしたという記録もないので、風邪をひきやすい・こじらせやすいタイプみたいな感じだったんですかね。
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