藤原時姫

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』/wikipediaより引用)

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道隆・道兼・道長の母「藤原時姫」低き身分から如何にして兼家嫡妻の座を掴んだか

大河ドラマ『光る君へ』の第1回放送で登場した藤原時姫を覚えていらっしゃいますか?

三石琴乃さんが演じる藤原兼家の妻で、藤原道長の母であるばかりか、長男の藤原道隆、入内した藤原詮子、さらには、まひろの母・ちやはを刺殺した藤原道兼も彼女の息子です。

長男・藤原道隆(井浦新さん)

次男・藤原道兼(玉置玲央さん)

三女:藤原詮子(吉田羊さん)

三男・藤原道長(柄本佑さん)

劇中だけでなく史実においても上記のメンバーは全員が権力の頂点に立つことになりますが、母の藤原時姫はこうした状況を望んでいたのかどうか。

天元3年(980年)1月15日はその命日。

彼女はいかなる経緯で藤原兼家の妻となり、生涯をすごしたのか、振り返ってみましょう。

 

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藤原兼家の嫡妻

藤原時姫は、藤原兼家の【嫡妻】です。

日本史でお馴染みの【正室】ではなく、この呼び方で本妻となります。

当時の貴族はどんな婚姻形式だったか?

というと男性が女性の家に向かう【通い婚(妻問結)】であり、三日続けて通うと婚姻が成立。

このとき食べる餅は「三日餅」(みかよいもち)と呼ばれ、詳細は以下の記事に譲り先へ進めます。

平安貴族の結婚
平安貴族が結婚に至るまでの不思議な手順~文を書き夜を共に過ごして三日通う

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貴族には通常、複数の妻がいて、嫡妻となる女性のもとで男性と夫妻の子が暮らし、その様子は大河ドラマ『光る君へ』の第1話でも描かれていました。

道長の父である藤原兼家は、藤原北家の貴公子であり、妻も複数います。

藤原兼家/wikipediaより引用

ざっと以下の通り。

嫡妻:藤原時姫(父・藤原中正)

妻:藤原道綱母(父・藤原倫寧)

妻:保子内親王(村上天皇の第三皇女)

妻:対御方 (父・藤原国章)

妻:藤原忠幹の娘

妻:源兼忠の娘

妻だけではなく、妾もいました。

妾:中将の御息所 (円融天皇御息所、父は藤原懐忠の娘か)

妾:大輔典侍(超子女房、 権の北の方)

嫡妻に選ばれた時姫は、やはり特別なのでしょう。

兼家は嫡妻を決めぬまま、複数の妻の元に通っていた時期がありました。

 


ライバルは藤原道綱母

藤原時姫にとってライバルだったのが、才色兼備である藤原道綱母でした。

時姫の長男である藤原道隆(953年生)と長女・藤原超子(954年?)が生まれた翌年、時姫を母としない藤原道綱(955年)が生誕。

藤原道綱母は、自身が嫡妻に選ばれなかったことを嘆きました。

わざわざ自邸前まで牛車でやってきて、そのまま別の場所に向かうような焦らしをする兼家に、道綱母は翻弄され続けるのです。

結果、そのときの恨みつらみを『蜻蛉日記』に記し、彼女は後世に名を残していますが、怒りは兼家に、羨望は時姫に向かっていました。

浮世絵にも描かれた『蜻蛉日記』岳亭春信:画/wikipediaより引用

時姫の父・藤原時正は、従四位上・摂津守であり、実はそこまで身分が高いとは言えません。

藤原道綱母の父・藤原倫寧は、正四位下・伊勢守です。

血統という点でいえば、大差はない。逆に、大きな格差でもあれば諦めがつきやすかったはずで、そうではないからこそ藤原道綱母は悶々としたのでしょう。

なにせ彼女は「本朝三美人」と言われたほどの美貌で知られます。

※日本の美女ベスト3で衣通郎姫・藤原道綱母・光明皇后

美貌の母を持つ息子の藤原道綱は、当時でも有数の美男と評判でしたが、「物を知らない男である」と藤原実資に酷評されています。

『光る君へ』では上地雄輔さんが道綱を演じ、実資役はロバート秋山さんで話題となりましたね。

ともかく、こうしたドロドロの経緯を経て、時姫は東三条殿で暮らすようになりましたが、優雅なようで生々しい関係がそこにはありました。

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