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【藤原行成】
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【刀伊の入寇】恩賞問題では反対姿勢だったが
代替わりに伴い、円融天皇の中宮だった藤原遵子が太皇太后になったため、藤原行成は【太皇太后宮権大夫】という長い名前の役職となりました。
しかし、三条天皇の時代は長く続きません。
道長が、直接の血縁関係がなく、外戚としての力を振るえないため、早期退位を促すべくあれこれやったのです。
三条天皇自身も眼病にかかってしまったため、退位を受け入れざるを得ませんし、行成をはじめとした他の貴族たちも、道長に従うしかない。
こうして長和五年(1016年)に道長の外孫である敦成親王が後一条天皇として即位。
翌長和六年(1017年)には、道長が摂政と左大臣の職から引き、嫡子の藤原頼通が摂政となりました。
といっても、行成を含めた貴族たちが、道長・頼通に従う点については変わりありません。
また、寛仁二年(1018年)には行成が家別当を務めていた敦康親王が薨去してしまい、当分の間は道長の外孫にあたる皇子が天皇を務めていくことが確定しました。
その翌年、対馬や九州で外敵が侵略してくるという重大事件が勃発します。
寛仁三年(1019年)4月に起きた【刀伊の入寇】です。
対馬・壱岐で略奪行為を働いた大陸の女真族が九州北部に侵入し、大宰権帥・藤原隆家と、大宰府の武士たちが応戦・撃退したというものです。
これに対する褒賞をどのようにすべきか――朝廷では意見が割れました。
なぜなら撃退した時点では朝廷からの命令が届いていなかったため、公務扱いになるかどうか微妙なところだったのです。
当時は電話もインターネットもありませんから、タイムラグがあるのは仕方のないことですね。
行成と藤原公任は「命令が届く前の武功に褒賞を与えるのはいかがなものか」という意見でしたが、強く反対したのが藤原実資です。
「寛平六年(894年)に、文室善友が新羅人を撃退したときは今回と似たような状況でしたが、褒賞が与えられています。
それに、今回のような大事を収めた者を賞さなければ、今後外敵が攻め込まれたときに『防戦しよう!』という者がいなくなってしまいますよ」
これには藤原斉信も賛同し、結果、行成と公任もうなずき、褒賞が決まりました。
当時の宮廷と地方の温度差というか、大幅な認識のズレがうかがえますね。
なお、行成と公任が隆家らへの功績を渋ったのは、隆家が藤原伊周の弟であり、長徳の変で罰されていた背景が影響しているかもしれません。
この時期、隆家が大宰府へ行っていたのは、唐人(中国人)の名医に目を診てもらうためだったともされています。
隆家の目はその後に治ったのか、寛仁三年の年末に京へ戻っています。
藤原隆家は当代一の戦闘貴族だった「天下のさがな者」と呼ばれ刀伊の入寇で大活躍
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太宰府の後任を引き受けたのが行成でした。
冒頭で述べた通り、藤原行成は幼い頃に父方の祖父や父を失った影響で、後ろ盾が弱い状況でした。
その上、末娘の婿に道長の六男・藤原長家を迎えており、その娘も病弱だったため、収入を増やす目的で大宰権帥の職を受けたようです。
といっても、朝廷にとって行成は欠かせない存在。
翌年には権大納言に昇進したこともあって、実際に任地へ行くことはありませんでした。
「悲嘆の甚だしき、為すところを知らず」
治安元年(1021年)になると、行成の末娘が亡くなってしまい、『権記』には「悲嘆の甚だしき、為すところを知らず」とまで書いています。
現代語に訳さずとも、行成の悲しみが伝わってきますね……。
余談ですが、1020年代には公任や道長も娘を失い、いずれも悲嘆に暮れているさまが記録されています。
我々現代人からすると、どこか人間味が薄く感じる平安貴族ですが、やはり人の親としての気持ちや喜怒哀楽は変わりません。
こうして幼少期の不遇や長じてからのトラブルを乗り越え、なんとかやってきた行成。
万寿四年(1027年)の年始頃から体調が優れなくなり、左手の不調を訴えたり、馬に乗れなくなったり、日常生活に支障が出始めました。
3月にはお灸を受けていたようですから『どうにかして体を治したい』という悲痛な気持ちがうかがえます……。
しかしその甲斐むなしく、12月1日にお手洗いへ行く途中で倒れ、12月4日に亡くなりました。
享年56。
倒れてから亡くなるまでは会話や食事ができなかったとされ、それ以前の症状なども併せて考えると、死因は脳梗塞などでしょうか。
興味深いことに、この万寿四年12月4日という日は道長が亡くなった日でもあります。
道長は未明、行成は夜にそれぞれ亡くなったため、世間では道長の死でてんやわんやになり、行成についてはあまり話題にならなかったとか……。
さすがに、その状況をどうかと思う人もいたらしく、道長の死を上奏しようとしていた頼通に対し、大外記・清原頼隆が
「行成殿の件も上奏なされては」
と勧めると、頼通の勘気を蒙ったとか。ひでぇ。
しかし頼隆も諦めず、周囲に自らの正当性を訴えていました。これに同意したものか、参議の藤原広業からの提言もあり、勘気が解けたとか。
頼通はバツが悪かったようで、勘気を起こしたことすら隠そうとしていたようです。小学生かっ!
◆
藤原行成は能書家であり、優れた記録者でもありました。
現代にも彼の書と伝わる作品が複数伝わっています。
一部はインターネット上でも閲覧できますので、ご興味のある方はぜひ。
また、彼の日記である『権記』は詳細な記録であるというだけでなく、特に妻や子供たちに先立たれた悲しみがありありと描かれており、平安貴族の肉声を我々に聞かせてくれます。
もしも行成が物語を書いていたら、人の心を打つような名著を送り出せていたかもしれません。
1998年には、彼の記した有職故実の書『新撰年中行事』の写本(しかも後西天皇筆)が見つかっています。
後西天皇は江戸時代初期の方です。
つまり、その頃まで行成の書いた原本か、限りなく原本に近い写本が残っていたことになります。
今後も行成の書や著作が見つかるかもしれない――それを期待して待ちたいところです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『権記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』(→amazon)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(→amazon)
ほか