こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【藤原行成】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
彰子の立后に一役買う
長保元年(999年)、藤原行成に転機が訪れます。
この年、藤原道長の長女・藤原彰子が入内して女御となり、道長は既に敦康親王を産んでいた中宮・藤原定子に対抗する方法を考え始めます。
そして「定子を皇后にし、彰子を中宮に立てる」という荒業を一条天皇に申し出ました。
道長はこのとき、行成に
「彰子を中宮にしたいので、貴公からも一条天皇によろしく伝えてほしい」
と頼んだとされます。
前例に詳しく実務能力も高い、そして立場も比較的中立である行成をアテにしたのでしょう。
行成も当時の後宮に対して思うところがあり、一条天皇に話をすることにしました。
話の肝は、当時の藤原氏出身の后妃が全員出家していて、神事をやらない状況だったことです。
どういうことか?
当時、后妃の立場にあった女性は三人。
円融天皇の女御かつ一条天皇の母・藤原詮子と、円融天皇の中宮だった藤原遵子は、円融天皇の崩御後に仏門へ入っていました。
この二人は慣習的に問題なかったのですが、定子については前例のない経緯で出家していました。
兄弟の藤原伊周と藤原隆家が長徳二年(996年)に起きた【長徳の変】で犯人となってしまい、引き立てられていくところを見て、衝動的に自ら髪を落としてしまったのです。
にもかかわらず、一条天皇の寵愛が深いがゆえ宮中に戻っていて、公家の中には「出家の身で恥知らずな」という声が一定以上存在していたとされます。
行成の日記『権記』には、彰子の入内前に、大江匡衡が行成に対して語ったことが以下のように記されています。
「唐の国では、出家していた則天武后が宮中に入って国が滅んだといいます。
定子様が再び内裏に入ってから火事が起きたのも、故事にならったものでしょうか」
大江匡衡の妻は道長の嫡妻・源倫子の女房で、かつ彰子にも仕えていた赤染衛門ですので、確かに彰子サイドの意見ではあります。
しかし、彰子が女御になった日に定子が敦康親王を産んでいたにもかかわらず、『権記』や『御堂関白記』(著・藤原道長)にそのことは記されず、反道長スタンスの藤原実資『小右記』ですらも詳しくは触れられていません。
定子に関する当時の社会不安や冷たい視線が相当のものだったことが伝わってきます。
そんなわけで、道長の権力欲を別にしても、神事を重んじる皇室で「后妃が祭祀を務めない」というのは好ましい状況ではありませんでした。
これらを踏まえて行成は「彰子を中宮にして神事をやってもらうようにすることは、前例からみても不都合はない」と結論付けて、一条天皇に上申。
一条天皇もこれを受け入れ、彰子の立后が実現します。
道長が、行成の協力に対して喜んだのは言うまでもなく、
「お互いの子の代になっても必ずこの恩に報いるよう、兄弟同然に思い合うように命じておく」
とまで言ったとか。
行成としては、かつて定子のもとへ出入りしていた時期があり、清少納言との逸話もありますので、複雑な気持ちだったかもしれません。
道長からも「書」を頼まれて
藤原行成といえば、何より「書」が有名でしょう。
当時の達人とされる三蹟の一人に数えられ、この頃から関連エピソードも増えてきます。
かな書道が光る『光る君へ』「三跡」行成が生きた時代
続きを見る
内裏の建物や門の書額を書いたり、一条天皇から申文(上申書)の写しを作るよう求められたりなど。
後者は「(参議になりたいので)蔵人頭を辞職したいのですが」という内容の申文だったのですが、一条天皇はそちらは認めませんでした。
行成からすれば、ときの天皇から書を求められて嬉しい反面、「写しをお求めになるなら、辞職(と昇進)も認めていただきたいな……」とも思ったでしょう。
とはいえ、一条天皇にしてみれば、行成のような優秀な人が【蔵人頭】でいてくれたほうが良いのも道理です。
蔵人頭は天皇に側近く仕える要職ですから、内容によっては后妃たちやその実家の人々との折衝もします。
いくつもの御殿を行き来しなければならないこともあり、ただ実務ができるというだけでなく、コミュニケーション能力も求められました。
実務と人付き合いを両方こなすというのは、文字で書く以上に難しいもの。後任を探すのも簡単ではありません。
道長としても一条天皇と同じ意見だったようで「右大弁を辞めて、近衛中将を兼任しては?」と行成に伝えたこともありました。
右大弁は前述の通り右弁官のトップですから、言わずもがな激務。
一方、近衛中将は近衛府の次官、かつ内裏の警護役なので蔵人頭と行動範囲が重なる部分も多く、負担が減ると考えたのかもしれません。
しかし、近衛中将については、行成自身が従兄弟の藤原成房(なりふさ/なりのぶ)に譲りました。後ろ盾の弱い行成にとって、右大弁の地位は手放し難いものだったのでしょう。
ちなみに、道長も行成の書を欲しがった逸話が伝えられています。
あるとき行成が道長から『往生要集』という仏教書を借りた際、道長が
「その本は差し上げるので、あなたが書写したものをいただけないか」
と言ったというものです。
印刷技術のない時代ですから、本は書き写すものであり、同時に非常に貴重な存在でした。
手間はあっても、書物の内容に触れられる機会が増えるということは、学識高い行成にとっては嬉しい申し出だったことでしょう。
また、この時期に行成は京都一条の北・大宮の西に世尊寺を創建し、信仰心と財力を世間に証明することになりました。
これによって、行成の子孫が「世尊寺家」と呼ばれるようになります。
一条天皇からの相談も
後宮でも、藤原行成の評判は高かったようです。
藤原定子の御殿へ出入りしていたこともあってか、生母を亡くしていた敦康親王家の別当に任じられました。
行成は、母方の後ろ盾を得られない敦康親王の将来を危ぶんだものか、一条天皇にこんな奏上をしています。
「敦康親王殿下を彰子様のお手元に預けてはいかがでしょうか? 後漢の時代にも似たような例がございます」
父である一条天皇も、息子の将来を案じていました。
また、彰子もこの時点では若すぎて懐妊できていなかったため、道長としても異存はなかったようです。
この一件と関係あるかどうかは不明ですが、このころ行成は念願の参議へ昇進し、”公卿”の一員となっています。
公卿とは、三位以上の位階を持つ公家のことで(参議は四位でも含まれます)、貴族の中でも特段エライ人たちといった認識でよろしいかと。
また、この昇進に伴い、蔵人頭からは身を引きました。
後任は、俊賢の弟である源経房ですので、行成からの恩返しのようなものだったのでしょう。一条天皇はよほど行成を身近においておきたかったらしく、しばらくして侍従を兼任させているのですが……。
ただし、公卿の一員ともなれば、より道長の影響を受けやすくもなりました。
道長の屋敷を訪れることも増えたようで、藤原実資には批判されますが、むしろ彰子入内後の道長に逆らうほうが珍しいというもの。
一方で、彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産んでからは、少々悩ましい立場にもなりました。
行成が仕える敦康親王の立場が弱まってしまったからです。
一条天皇も同じ思いだったようで、寛弘八年(1011年)に重病となった際、行成に「敦康を次の皇太子にしたいが……」と相談しています。
このときも行成は文徳天皇の皇子たちや光孝天皇などの故事、そして敦康親王の母方の事情などを絡めて説得しています。
「敦康親王殿下を皇太子にする事は難しいと思います」
一条天皇も実際には半ば以上わかっていたでしょうから、信頼する行成に説得されたかったのかもしれません。
そして一条天皇は三条天皇に譲位した後、まもなく崩御。
新しい時代でも、行成は重職に就くことになりました。
※続きは【次のページへ】をclick!