蘭癖(西洋趣味)が激しいため、父の島津斉興から疎まれておりました。
なぜ、疎まれていたのか?
と申しますと、斉興の祖父・島津重豪もまた蘭癖で、薩摩藩の財政をボロボロにしていまい、その建て直しに凄まじい労力を伴ったからです。
といっても、藩財政の建て直しを藩主一人でデキることではありません。
このとき活躍したのが、調所広郷という人物。
経済官僚として優秀な腕をふるいながら、最期は急死――おそらく自殺であろうという悲運の政治家です。
彼こそが幕末の薩摩躍進を下支えした功労者とも考えられるのですが、本人のみならず一家離散という哀しい末路を迎えてしまいます。
なぜ、そんなことが起きたのか?
嘉永元年(1849年)12月18日に亡くなった、調所広郷の事績を振り返ってみましょう。
※位牌等の記録では19日が命日となります
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下級武士から大出世
安永5年2月5日(1776年3月24日)。
薩摩藩でも身分が低い、城下士の子「川崎良八」が誕生しました。
彼は13才で茶道家の調所清悦に弟子入りし、養子となります。調所は江戸に出て、第25代当主・島津重豪(しまづしげひで)の茶道頭にまで出世しました。
気の毒ながら、この時点で、彼には嫌われる要素が2つも出てきました。
・身分が低い
・茶道職
こうなると、本人のせいではないにも関わらず、周囲は嫉妬でこんなことを言い出すわけです。
「成り上がりの茶坊主風情が!」
同じような境遇としては、老中まで出世した田沼意次が挙げられるでしょう。
彼もまた、当時最先端の経済感覚を身に着けており、実際に画期的な政策も打ち出したりしたのですが、結局は、出身身分の低さから嫉妬とマイナス評価を買ってしまい、悲惨な最期を遂げたことは有名な話です。
調所広郷にも、そんな暗い影が忍び寄っていたのでした。
藩主・重豪の「安永改革」
前述の通り、島津斉興の祖父・島津重豪は「蘭癖大名」として知られておりました。
わずか11才で藩主となり、89才まで藩政を担った人物です。
彼は名前の通り、豪快で超人的なエネルギーの持ち主でして。
頭脳明晰、政治的能力も抜群。その治世において薩摩藩は「安永改革」と呼ばれる力強い発展を見せます。
ざっと例を挙げてみましょう。
・藩校「造士館」および郷校(地方の学校)整備
・薬草園を充実させ、漢方医学を奨励
・天文学を充実させ、「薩摩暦」を作る
・農業や植物の事典『成形図説』の編纂
・解説つき世界地図『円球万国地海全図』の編纂
こうした事業はまさに幕末に向けて、薩摩藩士の目線を世界に向けさせる偉大なものでした。
しかし、これには問題もありました。
莫大な金がかかったのです。
そのため、薩摩藩の借金は500万両、現在の貨幣価値で5000億円(江戸時代の貨幣計算は複雑ながらここは1両=10万円で換算)まで膨れ上がってしまうのです。
大阪商人は、こう陰口を叩いていたと伝わります。
「ドブに金捨てるのは構へんけど、薩摩様にご用立てするのだけは堪忍やで」
島津斉興が、蘭癖の恐れのある島津斉彬を藩主から遠ざけたくなる気持ちもご理解いただけましょう。
なりふり構わぬ財政改革
もちろん重豪とてバカではありませんから、このおそろしいほどの借金をどうにかしようとしました。
そこで「小納戸頭」として抜擢されたのが、才気溢れる調所でした。
髪を伸ばし「笑左衛門」と名乗った調所。行政や農政改革に手を付けますが、焼け石に水です。
もう、こうなったら手段を選べるはずもありません。
かくして練り上げた強引なまでの計画が以下のようなものでした。
・借金の返済期限を250年にしろと商人を脅迫(実質的に踏み倒し)
・琉球&清と密貿易(唐物貿易)を行う
・商人にも密貿易を斡旋する
・三島(奄美大島・徳之島・喜界島)からサトウキビを搾取→島民は飢餓に苦しむ「黒糖地獄」という状態に陥る
・大阪の砂糖問屋を閉め出し、薩摩の黒糖を売りさばく
グレーゾーンを踏み越えてブラックであることは言うまでもありません。
ただしここできちんと認識しておきたいことがあります。
調所がここまでやらねばならなかったのは、重豪が原因なのです。彼はむしろ、尻拭いをさせられたと言っていいでしょう。
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