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【調所広郷】
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調所一族の不幸
冷静に考えてみると、本当にお由羅が暗躍していたのかも不明瞭。
斉興と調所の気持ちも理解できる、そんな哀しい事件が「お由羅騒動」ではないでしょうか。
勝利を収めた斉彬派も、赤山靭負らを失った恨みもあり、わだかまりが残りました。
そうはいえども、斉興と由羅を責めるわけにもいきません。2人は久光の両親であり、現藩主・忠義の祖父母にあたるわけです。
となると誰が適役か?
説明するまでもないでしょう……。
調所家の家格は下げられ、嫡子は役を解かれ、家禄と屋敷も召し上げられました。
さらには彼の死から15年後も遺族に追罰が下されるという、悲惨な目に遭うのです。
死を前にした調所は「自分のことは仕方ないが、子孫はどうなるか」と案じていたそうです。
まさしくその予感が的中してしまい、遺族は日陰者として生きるほかなく、一家は離散します。
救いは三男の広丈が、明治維新後、政治家として成功したことでしょうか。
調所が世を去り、その配下も斉彬派によって政界を追われた後、皮肉にも、調所の読みはあたりました。
斉彬は確かに開明の時代を開いています。
ただし、彼の行った大砲や軍艦の開発は金がかかり、結果的に増税するほかありませんでした。
開発費は莫大であり、自前で開発するよりも、調所や斉興が考えていたように輸入した方が安上がりだということもわかりました。
まぁ、これはあくまで結果論で、斉彬の進取の精神自体を責められないですが、かといって調所広郷の人格、見識まで貶めるのはおかしいものです。
斉彬の後を継いだ忠義とその父・久光の時代、薩摩藩が選択した手っ取り早い収入増加の手段は、やはり密貿易でした。
しかも今度の相手は、イギリス。
こうした事実は、調所のやり方が間違っていなかったことを証明します。
それでも調所の名誉回復は、ずっと先のことです。
島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通らが評価される陰で、調所の名は奸臣として語り続けられました。
※調所一族の墓は東京に移され、平成13年(2001年)になってやっと鹿児島に戻されます
「ヅショドン」の墓
苗代川の人々は、調所の死を大いに悼みました。
彼らは代表者を江戸まで派遣して、調所に哀悼の意を示すとともに、遺品をもらい受けます。
そしてそれを埋めて、調所を弔うための質素な墓を作りました。
「ヅショドン」
苗代川の人々はこの墓をそう呼び、調所を悼み続けました。
調所は奸臣どころか薩摩を救った縁の下の英雄ではないか――。
そんな祈りを捧げてくれた人々もいた、そのことだけが彼の魂を慰めてくれたことでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『かごしま検定―鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック―』(→amazon)
五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon)