コナン・ドイルの人気シリーズであるシャーロック・ホームズ。
その短編に『孤独な自転車乗り』という作品があります。
音楽教師のヴァイオレット・スミス嬢が【自転車通勤をしている】ことが、この作品の重要な要素。
ふーん、自転車通勤ねぇ……とウッカリ読み飛ばしてしまう方もしれません。
しかし彼女が自転車乗りであるということは、とても画期的なことなんです。
当時、自転車は女性を解放しました。
ヴァイオレットのように、男性の付き添いがなくとも移動できるということは、画期的なことであったのです。
重たいスカートやドレスでも、乗りこなすことができる自転車。
「私たちは、一人で移動できる!」
そんなふうに、自転車の普及は、女性の解放への道をも後押しするものであったのです。こうして解放された女性たちの力が、女性参政権運動へも繋がってゆきます。
ただの自転車通勤女性とスルーされてしまいそうなヴァイオレットですが、当時の読者が読めば、こう思ったかもしれないわけです。
「へえ〜、自転車通勤する音楽教師ねえ。今どきのオシャレで進歩的な女性ってことか」
これはイギリスだけのこと?
もちろん、違います。
日本人にとっての自転車の歴史は、幕末にまで遡ります。
現代ではすっかり普及したこの乗り物は、時代によっては重大な意味を持っておりました。
なぜあのボンボンは自転車に乗れるのか?
少し脱線しますが……自転車の話で注目したいのが『ゴールデンカムイ16巻』の鯉登音之進少尉です。

『ゴールデンカムイ16巻』(→amazon)
16巻は山田サーカス団でパフォーマンスを繰り広げる、杉元はじめ先遣隊の活躍が見せ場となります。
明治時代のサーカスは和洋折衷。
杉元が挑んだハラキリショーやチカパシの曲独楽といった日本由来の見世物もあれば、谷垣と月島が挑んだ西洋風のダンスもあるわけです。
鯉登が無茶苦茶なパフォーマンスを披露する綱渡りその他は、完全に混ざっておりましたね。
余談ですが、杉元が提案したローラースケートにつきまして。
発明は18世紀、20世紀初頭頃には欧米で娯楽として定着しております。
指摘するのも野暮ではありますが、若い男性グループが履いて歌ってパフォーマンスとして人気を集めることになるのは、20世紀後半ですね。
このサーカスの場面で、杉元と谷垣がおっかなびっくり自転車に乗っておりました。
プルプルと震え、杉元は月島の支えに頼る始末。月島が手を放した途端、杉元はすっ転びます。
あれ?
でも、これってちょっと不思議ではありませんか?
現代ならば、杉元や谷垣と同年代の成人男性ならば、ほとんどの方が自転車を乗りこなすことが可能でしょう。
ところが、杉元と谷垣、そしておそらく月島も、そうではない。
運動能力が不足しているから?
いやいや、この三人は常人以上の能力すら発揮するほどです。
そんな一行の中で、例外となるのが鯉登です。
彼の場合、ペダルすら踏んでいない曲乗りをこなしてしまうほど達者。
なぜそうなるのでしょうか?
もちろん、軽業の天才と絶賛されるほどの、鯉登の驚異的な運動能力もあるでしょう。
しかし、それだけではない可能性もあります。
薩摩閥の海軍少将の子である鯉登は、作中でもボンボンと呼ばれるほどの財産に恵まれています。
つまり、彼の家には自転車があり、それを乗りこなせていた可能性がある――自転車に乗れるのか、乗れないのか――そこには経済格差があったはずなのです。
自転車が庶民のものとなったのは、杉元らが生きていた時代よりずっとあとのこと。
そんな自転車の歴史をちょっとたどってみましょう。
最初の“自転車”は地面を蹴った
重たい荷物を運ぶ。
歩くよりも素早く移動する。
そのためには、馬や驢馬が必要とされる――それが歴史でした。
馬の力がなくとも、移動や運搬ができないものだろうか?
そんな発想のもと、1813年に作られた移動手段がありました。発明者カール・ドライスの名を取って、「ドライジーネ」と呼ばれています。
時速12キロで移動できるドライジーネ。
発祥の地であるドイツだけではなく、フランスやイギリスでも使われました。
ただしこのドライジーネは、ペダルがありません。
またがって地面を蹴りつけて移動するものでした。
しかし、これでは靴底が削られ、改良が望まれるようになったのです。
ちなみに現在は、ペダルのない自転車が幼児向けのバランスバイクとして普及しています(STRIDER)。
杉元と谷垣も、ドライジーネ型ならばなんとかなったのかもしれませんね。
ペダルの発明
1861年、パリの鍛冶屋であったピエール・ミショーは、ドライジーネ型の修理をしていました。
修理を終えて、息子が点検のために乗っています。
彼はこう愚痴をこぼしました。
「やっぱり蹴りながら進むのは不便だし、下り坂だと勝手に進むから、脚をどうしたらよいかわからなくってさ」
ミショーはそこで考えます。
『脚を置くための短い棒をつけたらよいのではないか?』
一度湧き出たアイデアは、それでは止まりません。
『その棒で、車輪を回せば、蹴ることなく前進できるのでは?』
設計図を書いて作ってみると、このアイデアは的中しました!
このアイデアは、ミショーではなくピエール・ラルマンだったとも言われてます。
ハッキリしていることは、この頃から自転車にはペダルがついたということです。
ただし、上記の画像をご覧になって、現代の自転車に必要な【とある部品】がないことにお気づきになりましたか?
チェーンです。
その発明はまだ先のこと。
いずれにせよペダルの発明は、自転車のデザインに大きな変化をもたらしました。
前輪が大きくなる!
チェーン発明前――自転車は、ペダルで一回転させてこそ前に進むものでした。
そうなると、推進力となる前輪を大きくすればするほど、素早く移動できるということになります。
1870年、イギリス人のジェームズ・スターレーが、前輪が大きく後輪が小さい自転車「ペニー・ファージング型」を発明したのです。

当時の一般的な自転車/photo by Agnieszka Kwiecień (Nova) wikipediaより引用
日本では「だるま車」と呼ばれ、前輪の巨大化が進み、ついには2メートル近くになるものも!
脚力で速度も変わるわけで、レースも開催されるようになりました。
しかし、こうなると当然ながら問題も続出します。
まず、漕いでいるだけで疲れ果ててしまう。
そしてそれ以上に問題視されたのが、危険性です。
小石程度で簡単に転倒してしまうのです。
しかも、高さは2メートル近いわけですから、恐ろしい話ですよね。
こうした問題を抱えたペニー・ファージング型は、15年ほどで廃れてしまいました。
そのユニークな形状は現在もイラスト等で見かけますよね。現在でも愛好家はおり、イベントも開催されているようです。
ちなみに日本人と自転車の出会いは、幕末の外国人が持ち込んだもの。
日本人が知った時点では、ペニー・ファージング型までということになります。
「ローバー安全型自転車」の革新
1878年、ウィリアム・ヒルマンがペニー・ファージング型にチェーンをつけた「カンガルー型」を開発しました。
1879年にはヘンリー・ジョン・ローソンが、現在のように前輪と後輪をチェーンでつなぐ「バイシクレッタ」を開発。
チェーンの導入により、前輪のサイズは小さくなり始めました。
車輪が大きいことと速度が連携しなくなっていったからです。
1885年、ジョン・ケンプ・スターレーとウィリアム・サットンは、新たな自転車「ローバー安全型自転車」を作ります。
・前輪と後輪の大きさが同じである
・チェーンによって後輪が動く
・フレームが三角形のダイヤモンド型
おっ、これで、ほぼ現代と同じですね!
当時としてはあまりに斬新。
人々は『本当に速いのか……』と首をひねりながら、いざ一度乗り始めてみると、これが今までのものよりずっと快適であると実感します。
1888年には、ダンロップが自転車のタイヤにゴムを使用し、発売します。
このことはコンゴを地獄の底に突き落とすきっかけとなるのですが……それはさておき画期的なことでした。
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自転車の安全性と快適性が、格段に向上したのです。
こうした決定打の登場により、自転車ブームが到来したのでした。
自転車ブーム到来!
ローバー安全型自転車やゴムタイヤが登場するまで、自転車は変わり者が乗るものであり、女性とは無縁のものでした。
その状況が一転し、オシャレでトレンドの最先端をゆく乗り物となったのです。
女性たちも競って乗るようになりました。
1880年代半ばから、自転車はヨーロッパで大ブームとなったのです。
イギリスのバタシー・パークでは、こぞって上流階級の女性が自転車を乗り回すようになったとか。
自転車雑誌も登場し、サイクリングファッションも誕生するほど。
かつては変わり者の乗り物であった自転車が、乗らないほうがむしろ変わり者とされるほど、急速に普及していったのです。
シャーロック・ホームズシリーズの作者であるコナン・ドイルも、このブームに乗ったわけです。
1902年、ロンドン留学中の夏目漱石も、四苦八苦しながら自転車に乗ったのだとか。
気落ち気味であった彼を気遣った下宿先の女性が勧めたようです。
かなり苦労して乗りこなせるようになった漱石。
夏目鏡子夫人の回想によれば帰国後は、
「東京は道が悪いから……」
とかなんとか理由をつけて乗らなかったそうです。あまりよい思い出ではなかったのかもしれませんね。
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漱石が自転車に苦戦した翌年、1903年。
ついにフランスでは自転車レースが始まります。
現在に至るまで世界最大のものである「ツール・ド・フランス」です。
自転車は人々の間に定着していったのでした。
日本人は自転車が何かわからなかった
海を越えたヨーロッパでは、大ブームであった自転車。
前述の通り同時代の杉元と谷垣はプルプルしてしまい、ろくに乗れておりません。
たしかに幕末の外国人居留地には自転車が持ち込まれていました。
とはいえ、庶民にとってはワケがわからない存在なのです。
乗り物という認識すらなく、激突する事故が多発。
明治3年(1870年)には大阪で、自転車の路上運転が禁止されたほどです。
ブームからはほど遠い状況でした。
しかし同年、東京では竹内寅次郎という人物が「自転車」という言葉を生み出しました。
許可を得て、製造しようと思い立ったのです。
明治10年(1877年)。
石川孫右衛門がアメリカからの自転車を輸入し、日本初のレンタサイクルを開始します。
これがかなりの人気を博し、同時期、この自転車に目を付けた職人たちがおります。
【廃刀令】で商売あがったりになりそうな、刀鍛冶たち。彼らは刀から自転車へ、金属加工技術の発揮先を変えようとしたわけです。
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そしてついに梶野仁之助が、明治12年(1879年)、日本初の自転車製造・販売を始めることとなります。
国産自転車への道のりは遠いもの。
当時の自転車店は、修理が中心でした。
自転車はリッチな証だった
明治20年代ともなると、自転車がぼちぼちと普及し始めます。
アメリカからの輸入品がほとんどです。
その価格は現在の貨幣価値で500万円ほど!
そりゃあ杉元や谷垣のような、一般家庭出身者では乗れたはずもありません。
当時の家族写真には自転車がよく映っています。
それは「自転車を買えるほど、我が家はリッチです!」というアピールなのですね。
鯉登家の家族写真に自転車が映っていても、何ら不思議はないでしょう。
昭和33年(1958年)の廃止まで、自転車には所有税すらかかっていたほど特別な存在。
明治20年代末期からは、自転車レースも開催され、若者たちが歓声を送りました。上野不忍池は、自転車レースの熱気が溢れていたとか。
彼らは華族や大商人の子弟ばかりです。
当時のスポーツ振興を支えていたのは、鯉登や『いだてん』に登場する三島弥彦のようなボンボンたちでした。
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同時期、海外から自転車で曲乗りをする外国人が来日したこともあり、サーカスの目玉として定着してゆきます。
山田サーカス団も、こうしたブームにあやかっているわけです。
杉元たちが山田サーカス団公演を終えて、年号が大正に変わりますと、それまで男性のものであった自転車が女学生へも普及し始めます。
時代がくだるにつれ、自転車は庶民的な乗り物として当然のものとして、生活に欠かせないものとなりました。ずいぶんと時間がかったのですね。
大人気漫画およびアニメ作品『弱虫ペダル』によって、自転車ブームが到来。
それからかなりの時間が経っています。
実はこのブームが、初めての自転車ブームではありません。
色々とカタチを変えながら、私たちの暮らしに大きな影響を与えて来ました。
当たり前すぎる乗り物だけに、さして注目は集まらないかもしれません。
が、人の暮らしと関わり、変えてきた、そんな乗り物でもあるのです。
自転車のペダルを踏みながら、明治の人はこんなことができなかったのだなぁ……なんて思いを馳せてみるのもよいかもしれません。
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【参考文献】
谷田貝一男、自転車文化センター『どんどん進化する!自転車の大研究―しくみ・歴史から交通ルールまで』(→amazon)
清水一嘉『自転車に乗る漱石―百年前のロンドン (朝日選書)』(→amazon)
キャシー・バッセイ (著), 大田直子 (翻訳)『女性のためのサイクリングガイド』(→amazon)

















