安政三年(1856年)7月21日は、アメリカ公使のタウンゼント・ハリスが下田へ入港した日です。
教科書でも、まず「ペリーが日本を開国させ、その後ハリスが日米修好通商条約を結びました」ということで必ず出てくるので、見覚えのある方も多いのではないでしょうか。
しかし、重要事項の条約以外は、ほとんど知られていないということでもあります。
ハリスはどんな人なのか?
そこも含めて見ていきたいと思います。
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苦労人ハリス 図書館で勉強を重ねる
ハリスは上流階級や軍人の出ではありません。
兄弟が多い上に家が裕福ではなかったので、中学を出た直後から、商人の父や兄を手伝っていました。
仕事上も必要だったからか、図書館に通ってフランス・イタリア・スペイン語を学び、さらに文学についても調べ、足りない教養を補っています。
自身が若い頃そういった苦労をしていたので、ある程度お金ができてから教育に力を入れるようになりました。
ニューヨークにフリーアカデミー(現在のニューヨーク市立大学・シティカレッジの前身)を設立しています。
当時のニューヨークは人口に高等教育機関の数が追いついておらず、私立学校が二つしかなかったので、頭の出来がどうこう以前にお金持ちの子女でなければ通えなかったのです。
そのためハリスは「お金がない者も高等教育を受けられるように」と、この学校を作ったのでした。
自ら上記三ヶ国語の教鞭をとったこともあります。
一方で商才はあまりなかったのか、本業は好調とはいえなかったようです。
そこでハリスは思い切って貿易業に転進し、貨物船を買って自らニュージーランド・インド・清(当時の中国)を渡り歩きました。
清にいた頃、ちょうどペリーの艦隊がやってきていたので「日本に興味があるので、私も連れて行ってもらえませんか」と頼んだこともあったとか。
軍人ではないので断られてしまったそうですが、このハリスが後々通商条約の担当者になるとは誰も思っていなかったでしょうね。
しかし、かねてより東洋に興味を持っていたハリスは、一度断られたくらいでは諦めません。
日米和親条約を読み「日本へ行ける!」
ハリスはまず、台湾に関する調査をしてレポートにまとめ、自分の能力を示して寧波(ニンポー・上海の南にある中国の都市)の領事のポジションを勝ち取りました。
その後一時帰国。
同時にあちこちとのコネも利用して、ペリーが結んだ日米和親条約を読み、
「ここに駐日領事のことが書いてあるから、これに任命されたら日本へ行ける!」
ということを知ったハリスは、さらにお偉いさんたちへのアピールを続けます。
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そして見事、駐日大使に抜擢されます。これにはアメリカの国民性も大いに影響していました。
というのも、当時のアメリカでは、商人を役人にすることにあまり抵抗がなかったのです。
対照的なのはイギリスで、貴族もしくはそれなりに身分のある人を公使に任じています。
そのうちの一人が富士山に発砲したこともあるんですけどね。
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ついでに言うと、フランスでは何故か軍人を公使に任じることがたびたびありました。
この辺を詳しく分析したらお国柄がわかりそうですね。ハリスの話がどっか行っちゃうので今回はやめておきましょう。
粘り強く下田で交渉を継続
そんなこんなで晴れて駐日公使となったハリス。
シャム(当時のタイ)との通商条約締結も命じられ、それを難なくこなすとついに下田へやってきました。
「オランダと貿易してたんならオランダ語の通訳が要るな」
ということでオランダ語通訳は用意していたのですけれども、度重なる外国人の応対で幕府側もてんやわんやになっていましたから、正式に来たのに待ちぼうけをくらうという(´・ω・`)な事態もありました。
また、「大統領からの親書を預かってきたので、江戸に行って直接将軍にお渡ししたい」と申し出ても、幕府内の攘夷派が「異人は(・∀・)カエレ!! 」(※イメージです)とゴネたため、これも延期になってしまいます。
このときの将軍は十三代・徳川家定だったので、もしかしたら「上様のお体が良くなるまでお待ちくだされ」ぐらいのことは言ってたかもしれません。
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交渉自体は下田でもできるので、ハリスも無理に急ぎはしませんでした。
強気に出るのとゴリ押しするのとは違いますしね。
そんなハリスを後押しするかのように、翌年の夏にはアメリカから軍艦がやってきます。
これを見た幕府はついに将軍・徳川家定との会見も受け入れ、日米修好通商条約が締結されたのです。
この会見のとき、家定の持病であったとされる脳性まひの症状が出たらしきことが記録されています。
が、同時に堂々と「遠いところからご苦労! 大統領からの親書、並びに使者の口上には満足じゃ! 日米両国の交友は永久に続くであろう」(意訳)といったことを述べたとも書かれています。
ちなみに条約が決まるまでは幾度も事前交渉が行われ、そう簡単に決まったワケではありませんでした。というのも……。
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