借金とは、個人にとっても組織にとっても頭の痛い問題。
歴史上でもこの問題は幾度も持ち上がってきますが、そこで財政再建の名君と称され、TVや書籍でもたびたび注目されるのが上杉鷹山です。
寛延4年(1751年)7月20日はその誕生日で、彼は、あの謙信公が引き継いだ「上杉家→米沢藩」の九代藩主でありますが、そこでちょっと気になりません?
「そもそも米沢藩って、なぜそんなに財政がガタガタだったの?」
と、その詳細については以下の記事に譲り、
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120万石から30万石へ地獄の大減封!収入75%減となった上杉家はどう対処した?
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今回は、財政を建て直した鷹山の手腕を深掘りしてみたいと思います。

上杉鷹山/wikipediaより引用
わずか17才にして、大きな財政問題に取り掛かった鷹山は、一体どんな手腕を発揮したのでしょうか。
120万石→30万石 発端は「直江状」だった
そもそも米沢藩上杉家が困窮するようになったのは【関ヶ原の戦い】での敗北が根本にあります。
確かに上杉景勝と直江兼続は藩士の削減をしなかったのですが……

上杉景勝と直江兼続/wikipediaより引用
これを美談と言い切るのも、ちょっと厳しいのです。理由は後述します。
「直江があんな長い手紙で家康を煽らなければ、こんなことにはならなかったのに!」
そんな藩士の怒りがくすぶり、江戸期には直江兼続を「家を傾けた奸臣」と評価する声もありました。
藤原惺窩が兼続を「奸臣」と評価したという話も伝わっております。

藤原惺窩/wikipediaより引用
兼続自身も存続させようと思えば可能であった直江家を断絶させておりますので、思うところがあったのかもしれませんね。
三代藩主・綱勝が急死し、石高は半減
悪いことは続くと言いましょうか。
三代目・上杉綱勝が藩の財政難に拍車を掛けます。
彼は財政難を気に掛け、藩士には「一汁一菜」を命じておきながら、自分自身は能楽や狩猟にのめり込むという困った性格でした。

上杉綱勝/wikipediaより引用
そのための莫大な費用は代官や商家から借ります。それまで低空飛行なりに借金だけはしなかった米沢藩ですが、ここで借金という禁じ手に手を出してしまいます……。
しかも当人は世継ぎのないまま26歳で急死。
御家断絶もありえたのですが、綱勝正室の父にあたる会津藩主・保科正之が奔走してそれだけは回避します。

保科正之/wikipediaより引用
正之は幕府にかけあい、吉良上野介義央と綱勝の妹の間に産まれた子・綱憲(当時2歳)を養子にするよう交渉したのです。
交渉はまとまり、米沢藩は取りつぶしという最悪の時代は逃れました。
しかし、相続できたのは半分だけ。石高は15万石になりました。
120万石時代からついにその約十分の一にまで落ち込んでしまったのです。
「昔は景虎だった上杉だけど、今じゃ猫だよ」
しかし回避したのはあくまで最悪の事態、です。
石高がまたダウンしたのに、それでもリストラをしないという方針を貫いたため、財政はますます悪化。
藩士の生活は困窮しました。
藩は「知行借り上げ」という、これまた際どい禁じ手にも手を付けてしまいます。
家臣の俸禄の半分を藩が借り上げるということです。
例えば五十石取りならば、二十五石を借り上げという形で減らして支給される……要するに永久減給ですね。
月給20万円のところを、会社が借り上げるという名目で10万円取り上げられたらどうなるか、という話です。まさに禁じ手でした。
しかも綱憲は成長すると、藩士の困窮を無視して華美な生活を送るようになるのです。
本人だけならまだしも、その父・吉良義央も派手な生活を送っています。

吉良義央/wikipediaより引用
義央は幕府要人や大名との交際が多く、禄高は4千2百石となかなかあるにも関わらず、財政は常に火の車であったのです。
現代人ならばここで「お父さん、ちょっと生活を見直しましょう」となるところです。
しかしこの時代はそんなことは絶対に言えません。
藩主の実父を困窮させてはおけないというわけで、定期的に仕送りをする羽目になります。その額は年間6千石。さらに吉良邸新築費用8千両も米沢藩が負担しました。
吉良義央は『忠臣蔵』で有名な「赤穂事件」によって襲撃され、死亡してしまいます。

『忠臣蔵十一段目夜討之図』(絵・歌川国芳)/wikipediaより引用
この時、実父が襲われたのに綱憲が援軍を出さなかったことが、卑怯で臆病だと世間には思われてしまいます。
「昔は景虎だった上杉だけど、今じゃ猫だよ」
「謙信公も子孫の体たらくに嘆いていることだろうよ」
なんて江戸っ子から皮肉られてしまう始末。まさに踏んだり蹴ったりでした。
人多すぎ、藩主散財では立て直せるワケがなく
五代目から八代目までの藩主交替の間にも、米沢藩はますます逼迫してゆきます。
代々の藩主は病弱で夭折してしまったり、政治に無関心だったり。
しかも幕府から普請は命じられるわ、飢饉は起こるわ。
禁じ手だった藩学の知行借り上げは定着し、領民には7千両の借り上げ、人別銭や軒銭といった増税も相次ぎ、藩士から領民まで皆疲弊しきっていました。
江戸時代も中期となると、どこの藩も改革に迫られます。
天災、疫病、産業構造の変化、人口の伸び悩み、幕府に命じられる普請手伝い……その中でも、米沢藩は全国屈指の困窮ぶりです。
それも当然でしょう。藩の規模に到底合わない数の藩士がいるだけでなく、窮乏を無視して散財にふける藩主がいればどうにもなるワケありません。
借金はついに20万両にまで膨れあがりました。実に、藩予算の総額6年分です。

元禄小判/wikipediaより引用
これに対し周囲はどうしたか?
まず江戸の商人たちは返済能力がもはやないとみなし、米沢藩に金を貸すことはなくなりました。
よって藩は家臣からの借り上げ、増税、宝物を質に入れるという禁じ手を使い、糊口をしのぐほかありません。
借金苦のあまり、米沢藩は領地返上、すなわち自己破産を真剣に検討し、尾張徳川家から止められたほどです。
そんな状態でも藩主は無策無能、趣味にかまけるばかり。
藩の上層部は、そこで一人の少年に未来を託します。
世子、つまりは次期藩主となる長丸、のちの上杉鷹山でした(彼は何度か改名しますが、本稿はこれ以降、全て鷹山とします)。

上杉鷹山像(上杉神社)
上杉鷹山 吹雪の中、馬で颯爽と入城す
長丸は幼い頃から聡明で、慈悲深い性格であると評判でした。
そして明和6年(1769年)、鷹山が養子として米沢入りすることとなります(実父は九州の大名・秋月種美で、母方の祖父に米沢四代藩主・上杉綱憲がおりました)。
彼は藩主となった時点で大倹約令(大倹令)を発布。
これを機に、藩主が率先して己の身を切る改革が始まるのです。
まず、自身の周囲から改革案を掲げると、藩士たちにもピリッと緊張感が走ります。
・年間の仕切料(衣服・食費・交際費など藩主の生活にかかる費用)を1500両から209両に削減
・一汁一菜の徹底
・衣服は木綿のみとする
・奥女中は50名から9名に削減
このとき鷹山、僅か17歳。
今度の殿は本気らしい――。
家臣たちはそう期待しながら城で鷹山の登場を待ちます。
藩主は城の手前で馬に乗り換えるのですが、通例よりはるかに手前で駕籠から馬に乗り換え、吹雪の中、颯爽と入城しました。鷹山は寒い中はたらく駕籠かきを労ったのです。

藩主初入部祝いの膳は、赤飯と酒のみ。
この質素倹約への徹底した取り組み、気さくな態度で足軽にまで声を掛ける若き藩主を見て、家臣領民は感動したことでしょう。
しかも鷹山は、優しいだけではありません。
鷹山の改革を苦々しく思う老臣たち七名が改革反対の強訴を行うと、果断にも処罰を行います(七家騒動)。
若き藩主の改革に挑む心意気は、時に苛烈でもありました。
かくして反対派を排除した鷹山は、断固たる改革に取り組みます。
「籍田の礼」という中国の「天子親耕(君主自ら耕す)」制度にならったものです。
鷹山は家臣たちを引き連れると、手足を泥に浸しながら田を耕しました。その姿を見て、まさに全米沢藩が泣くような感動の嵐が巻き起こります。
「もったいなくもお殿様が、脚を汚い泥に浸して耕すなんて……!」
覚悟を見せ付けた鷹山は、本気で全力改革に乗り出します。
改革はフルコース 産業振興から領民の指導まで
鷹山の改革はまさにフルコース。
領民の指導から財政再建の産業振興まで、多岐に及びます。
「伝国の辞」をモットーに、鷹山は改革に取り組みました。
以下にそのリストをまとめています。
・参勤交代費用の削減
・藩士の生活救済
・藩校「興譲館」の再興:現在もその流れを組む興譲館高校(→link)がある
・有能な人材の発掘と登用
・郷村教導:領民たちに道徳観念や農業技術を指導
・世襲代官廃止
・漆・桑・楮(コウゾ)栽培促進:領内で特産物を作る
・灌漑用水開発
・殖産興業策の実施
・「備籾蔵(食料備蓄倉庫)」設置
・「かてもの(→link)」の刊行:重臣・莅戸善政の著作。救荒食ガイドブック。太平洋戦争時においても参照されたとか
・国産品奨励:現在で言うところの「地産地消」のような概念
・御用商人との関係改善
・戸籍の管理:耕作人口増加のねらい
・「農民伍什組合」の設置:農民のチームワーク強化に役立つ組織化
・勧農金貸し付けの促進
・「御報恩日備銭」制度:定められた休日に一家揃って内職を行い、それで得た収入を肝煎に納める
・風紀風俗の華美取り締まり
道のりは決して平坦ではありません。
飢饉、火災、世子の夭折。
文政5年(1822)に72歳という高齢で亡くなるまで、鷹山は藩の立て直しに取り組みました。
質素倹約につとめ、思いやりにあふれる一方、改革を断固として行う果断も持ち合わせたまさに名君でした。
そんな彼は米沢藩だけではなく、日本の歴史上でも屈指の仁君ではないでしょうか。
鷹山が没した時、藩の借財はあらかた返し終えていました。
会津と運命を共にして
しかし鷹山の死後、米沢藩では災害が相次ぎます。
鷹山時代に廃止された借上も再度復活し、藩士たちには内職をしながら食いつなぐ厳しい日々が待っていました。

上杉鷹山の名言として知られるこの言葉
そして迎えた幕末。
米沢藩はかつて御家断絶の危機から救った保科正之を藩祖とする会津藩を見捨てることができず、奥羽列藩同盟に参加することになります。
第12代藩主・斉憲は逆賊として維新を迎えました。
米沢藩の士族たちは、維新後もますます困窮します。
内職としていた機織りを本業とした者も多く、これが「米沢織」としてやがて全国に知られるようになります。
このように江戸時代、上は藩主・鷹山から、下は藩士や領民まで、倹約にいそしんだ米沢の人々。
上杉鷹山の教えは今も受け継がれ、大切にされています。
最悪の財政難にも関わらず、自ら倹約を心がけ、仁政で立て直した鷹山の教えは、いつまでも古くなることはないでしょう。
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【参考文献】
小野栄『シリーズ藩物語 米沢藩』(→amazon)





