徳川家重

徳川家重/wikipediaより引用

江戸時代

小便公方と呼ばれた九代将軍「徳川家重」実は意次を重用した慧眼の主君だった

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なぜ小便公方と呼ばれたか

冒頭で触れましたように、頻尿に悩まされていた徳川家重は市井の人々からもバカにされ「小便公方」と言われました。

現代だったらこんなあだ名を付けたほうが確実に炎上しますね。

その主な理由は

・徳川家の菩提寺である上野寛永寺までの道中に23ヶ所もトイレを作らせたから

だといわれています。

上野寛永寺清水観音堂

現代でもこの症状に悩まされている人は多いので、何となくわかる方もいらっしゃるかと思いますが、頻尿というのは体質や臓器の疾患の他に、ストレスで悪化することがままあります。

つまり、家重の頻尿は幕閣や市井の人々の陰口、及び将軍職という重責へのプレッシャーで悪化していた可能性も高いということです。

どう考えても23ヶ所というのは多すぎますから、実際に使うかどうかというよりも

「そのくらいの数がないとすぐ行けない」

「市中で恥をかきたくない」

という、不安の表れではないでしょうか。

当時の知識ではストレスと病気の関連性などわかりませんから、仕方のないことではありますが……にしても酷いものです。

人生のほとんどを江戸城という限られた空間で、ごくわずかな特定の人としか直に接しない生活の上に、そんな目で見続けられていたとしたら、どれだけキツかったことか。

 


自覚と慧眼

同時に徳川家重は、自分の限界をきちんと理解していたらしき行動もしています。

根拠は次の二点です。

一つは、宝暦十年(1760年)4月に大岡忠光が亡くなった翌月に、将軍職を家治に譲っていることです。

自分の意思を汲み取ってくれる人がいないということは、どんなに真面目にやっても誰もわかってくれないということになりますよね。

それが世のためにならないことがわかっていたからこそ、潔く身を引いたのではないでしょうか。

あるいは将軍職を退いた翌年に家重も亡くなっているので、健康上の懸念を自分で気づいていた可能性もあります。

父の吉宗が右腕・加納久通が亡くなって数年のうちに亡くなっているのと類似しているようで……この点から見ても、実は吉宗と家重の気質は似通っていたのかもしれません。

もう一つの根拠が、田沼意次を大名に取り立てたことでしょう。

田沼意次/wikipediaより引用

意次は、元々一介の旗本(将軍に直接お目見えできる最低身分の武士)に過ぎず、本来なら大名にも老中にもなるはずのない家柄でした。

しかし幼少期に家重の小姓をやっていたことがあって、その人柄や能力を把握していたため、公私に渡って信頼できるとして登用したのでしょう。

意次はかつて“ワイロまみれの悪徳政治家”という評価一色でしたが、最近は、商業や海防を重視した政治経済感覚が見直しされています。

家重がその才覚を見抜いていたとも言えるのです。

 


今こそ名誉挽回の再評価

以上の二つを総合して考えると、徳川家重は口に上手く出せないだけで、本当は優れた頭脳の持ち主であった可能性を否定できません。

いつの時代も、言葉ではうまく意思を伝えられない人はいます。

それを「小便公方」というイメージだけで咎めるのはいかがなものか、という気がしませんか。

遺骨から判断して、家重は日常的に歯ぎしりをしていたとされます。

やはり将軍という重責と、自分の体に関する悩みとで、相当追い詰められていたのでしょう。

しかし、それでも職務を投げ出さず、息子に引き継ぐまで勤め上げたのは立派といっていいはず。

田安宗武を生涯遠ざけたのも「中途半端に許せば諸々の禍根を招く」と判断してのことかもしれません。

真相を確かめるのは非常に難しいことですが、後世の我々は、江戸時代の下衆いあだ名を頭から消し、もう少し家重を贔屓目に見ても良さそうな気がします。

近年では、よしながふみ氏の男女逆転版『大奥』や、2023年の小説『まいまいつぶろ』などにより、これまでとは違った家重の姿が描かれる機会も増えてきましたね。

2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも新たな見方が提示されるかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
辻達也『人物叢書 徳川吉宗』(→amazon
大石学『徳川吉宗: 日本社会の文明化を進めた将軍 (日本史リブレット人 51)』(→amazon
大石学『人物叢書 大岡忠相』(→amazon
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
国史大辞典
日本人名大辞典
世界大百科事典

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