徳川家重

徳川家重/wikipediaより引用

江戸時代

小便公方と呼ばれた九代将軍「徳川家重」実は意次を重用した慧眼の主君だった

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将軍職継承

重好の誕生から半年ほど経った延享二年(1745年)秋、徳川家重は吉宗から将軍職を譲られました。

そしてその直後、享保の改革などに功績のあった老中首座・松平乗邑(のりさと)が罷免されています。

「乗邑が家重を廃嫡し、弟の宗武を次期将軍にしようとしていたことに対する報復」

そんな風に見る向きもありますが、吉宗も反対していないので、相談した上でのことなのでしょう。

というのも吉宗はこの後、家重が側室のお幸の方と仲違いして牢に入れた際「お幸は世子の家治の母だから、そんな扱いをするべきではない」と干渉しています。

松平乗邑の左遷に反対であればもっと強く言ったのではないでしょうか。

老中の罷免について知らされていなかったというのも考えにくいですし、徳川政権では将軍の代替わりに伴い側近が変わることも珍しくありません。

大御所になった後の吉宗はしばらく健康で過ごすも、寛延元年(1748年)に股肱の臣・加納久通が亡くなると、そこから一気に体を弱めてしまいました。

徳川吉宗/wikipediaより引用

特に、翌寛延二年(1749年)夏あたりから身体は弱ってしまい、宝暦元年(1751年)には半身不随になっていたといいます。

それでも吉宗のやる気は落ちず「何かあれば政治の相談に乗ろう」とは言っていたそうです。

 


田安宗武を排除

父の吉宗と通じていたであろう徳川家重ですが、弟の田安宗武を謹慎させたことは知らせていません。

このあたりから家重の自立心が強まったのか。

あるいは側近の思惑があったのか。

家重は宗武に生涯謁見を許しませんでした。

これは私怨ではなく、宗武が「我こそが将軍にふさわしい!!」とゴネ続けた事が大きいと思われます。

田安宗武/wikipediaより引用

ついでにいうと、宗武の息子の一人がかの有名な松平定信です。なんだか自分の考えの正当性を延々と主張するあたりがよく似ている印象で……。

いずれにせよ、長いこと偏見で見られていた家重は、周囲の評価とは別にきっちりと将軍職を全うしようとしています。

例えば、吉宗が亡くなってから数年のうちに、息子の家治へ将軍職を譲ることもできたのにそうはしていません。

家治が成人するまで将軍職を務めており、責任感や忍耐力があったと見なせそうなのです。

というのも、家重が将軍になってから、全国でトラブルが頻発するようになっていたのでした。

 


吉宗の負の遺産

少々時系列が前後しますが、全国で一揆が増えていました。

実は、吉宗時代の享保年間(1716~1736年)辺りからその傾向があり、徳川家重の頃になって「全藩一揆」とまで言われるほど頻発してしまうのです。

一例を挙げてみましょう。

寛延二年(1749年)播磨国姫路藩

寛延三年(1750年)伊予国大洲藩 大洲一揆(内之子騒動)

宝暦三年(1753年)備後国福山藩

宝暦四年(1754年)筑後国久留米藩

さらには美濃国郡上(ぐじょう)藩で宝暦4年(1754年)に始まった”郡上一揆”は特に大事になり、終結までに5年もかかりました。

同年代には、他の災害や事件も起きています。

宝暦四~七年(1754~1757年)宝暦の飢饉(東北地方)

宝暦四~五年(1754~1755年)宝暦治水事件

宝暦六~八年(1756~1758年)宝暦事件

宝暦事件については、幸い大事になりませんでしたが、飢饉や治水事件は長く尾を引いてしまいます。

ただでさえ体が丈夫とはいえない家重にとって、かなりのストレスになったことは想像に難くありません。

なお、この中では宝暦治水事件が広く知られているでしょうか。

薩摩義士碑
木曽三川の悲劇・宝暦治水事件~そして薩摩義士と家老の平田靱負は腹を切った

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