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【御三家と御三卿】
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必ず権現様へつながる
元々が「宗家にも御三家にも良い人材がいないときに養子を出す」ための家ですから、御三卿はあっちこっちへぼんぼこ養子を出しまくります。
時には「明屋敷になっちゃうけど、宗家と御三家のほうが大事だからいいよね!」なんてこともありました。
家がなくなるわけではないので気楽なものです。
そういうときは御三卿の別の家からさらに養子をもらっていました。
一橋慶喜(十五代将軍・徳川慶喜)のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。
逆に、田安家から御三家の紀州へ養子に出た人の子供が、宗家に戻ってきたという例もありました。
十四代の徳川家茂です。
どこも元を辿れば吉宗、さらに遡れば家康に行き着くので「大丈夫だ、問題ない」ということだったのでしょう。
御三卿の功績が一番かも
特に将軍の実子がいなくなってしまった十代家治の頃からは後継者候補として御三家に並び、御三卿の名前も多く出てくることになります。
十一代将軍・徳川家斉は一橋家の出身。
十二〜十三代までは血が続いたものの、先述のように十四代(のお父さん)と十五代も御三卿から来ています。
こうなるともう御三家の意味が怪しくなってきますね。
が、後継者に困っていたのは宗家だけでなく御三家も同じだったので、御三卿の存在は実にありがたいものになっていくのでした。
吉宗というとまず米や倹約が連想されますが、こうしてみると御三卿の設置が一番の功績かもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
徳川御三家/wikipedia
御三卿/wikipedia