赤穂浪士46人の切腹

討入の様子を描いた錦絵/国立国会図書館蔵

江戸時代

赤穂浪士46名の切腹を執行|最期の日まで最も礼を尽くしたのは細川家だった

2025/02/03

元禄十六年(1703年)2月4日、赤穂浪士46人が切腹しました。

あれ? 赤穂浪士って47人じゃないの? もう1人は?

と思われるかもしれません。

実は事件当日に寺坂信行という浪士が行方をくらましており、

寺坂信行/wikipediaより引用

寺坂についての詳細は記事末にある関連リンクから御覧ください。

また、赤穂事件というと忠臣蔵のイメージから「年末の話じゃないの?」という印象もあるかもしれません。

実は、世間が彼らに味方していたこともあて、なかなか処分が決まらず、一ヶ月以上経ったこの日に腹を召すことになったのです。

とはいえこの人数ですから、一つところで順番にやっていたら日が暮れてしまいます。

そもそも彼らは捕まった時点で四つの大名家に預けられていたので、そこでそのまま最期を迎えることになりました。

それまでの待遇ですが、どこの大名家かで切腹時の扱いもかなり違ったようです。

最も優れていたとされるのは、四家中一番の大身であった細川家でした。

 


室町時代から続く名家はさすがに違う

細川家といえば、大河ドラマ『麒麟がくる』で世間的にも注目された細川藤孝(細川幽斎)や、その息子でキレすぎる風流人・細川忠興の家で知られますね。

細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興(右)/wikipediaより引用

忠興には、なかなかエキセントリックな一面がありましたが、跡を継いだ細川忠利以降は名門に相応しい振る舞いをしており、この頃の当主は細川綱利(つなとし)という人で、忠利の孫でした。

細川藤孝から数えれば五代目にあたります。

元禄十六年(1703年)ともなれば、戦国の気風はかなり薄れ、あちこちの大名家で財布の紐やウエスト周りが弛んでくる頃合です。

しかし、さすがに室町時代からの名家は違いました。

綱利は浪士たちの預かり先、しかもリーダーだった大石内蔵助良雄を含めた17人という最多人数を任せられることが決まると、到着が真夜中だったにもかかわらず、ずっと起きて待っていたといいます。

さらに罪人に対するとは思えない食事(二汁五菜)や菓子に酒、部屋、風呂に嗜好品の世話までしてやり、大石については直々に会って話を聞くなど、彼らのやったことを肯定するような行動をしました。

一応幕府に許可を取ってはいたものの、ヘタをすれば細川家の命運に関わりそうなものです。

しかも助命嘆願だけでなく、わざわざ山へ神頼みに行くわ、「命をお助けくださるなら、我が家で召抱えたい」とまで申し出るわ、願掛けのため精進料理に切り替えるわ、相当な入れ込みようでした。

 


 細川綱利が規格外だったのかもしれない

とはいえ細川綱利も武士ですから、幕府から「切腹させよ」と命じられれば従わざるを得ません。

細川綱利/Wikipediaより引用

最後の情けか悪あがきか。「端役の者では彼らに礼を失する」として、介錯人(切腹の際止めを刺す役)に重臣や自分の小姓を当てるなど、心配りを見せました。

現代人からすると「控訴とかできないんかい?」と思われるかもしれませんが、当時は再審とかないので仕方ありません。

綱利も自分の家を守らなくてはいけませんから、最大限の配慮をすることで浪士達に礼を尽くしつつ、幕府への体裁も整えたのです。

さすがに50万石もの大大名である細川家を潰すわけにはいきませんからね。綱利もなかなかやりますなぁ。

こうなると赤穂浪士たちを預かっていた他の三家がショボく思えてしまうかもしれませんが、綱利が規格外すぎただけのことなので、彼らが悪いわけではありません。

むしろ細川家が代々幕府の役に立ってきた大藩だったからこそ、お目こぼしをしてもらえたのでしょう。

もし普段から幕府に反抗的だったり、さほど熱心にお勤めをしているようには見えない家だったら、これを機に何らかの処罰がくだされていたかもしれません。

 

ただ一人実際に腹を切って意地を見せた間光風

他の三家の内訳は、久松松平家(家康の異父弟の血筋)、家康の従弟系統の水野家、そして毛利家……といっても毛利の本家ではなく、毛利秀元の家系のほうが預かり先を任されました。

大身の前田家や島津家、伊達家などが選ばれていないのはちょっと意外な気もしますかね。

一方で家康親族の家系はまだしも、外様なのにこのような重要な役を任された細川家や毛利家の信頼されっぷりもうかがえます。

この中で特筆すべきエピソードを残しているのが、毛利家に預けられた赤穂浪士・間光風(はざまみつかぜ)という人物でしょう。

『義士四十七図 間新六郎光風』(尾形月耕画)/wikipediaより引用

武士よりも役者さんや文化人にありそうな綺麗な名前ですが、心意気は武士そのもの。

当時の切腹は既に形式化しており、実際に腹を切ることはほとんどありませんでした。あれほど忠義を貫いた浪士たちも、直接の死因はほとんどは介錯人によるものです。

しかし、光風はただ一人実際に腹を切り、介錯人が慌てて止めを刺したのだとか。

これまた一歩間違えると預かり先の不手際としてお咎めを受けるところですが、検視役が「見事」として褒めたため事なきを得たそうです。

確かに、本来の作法を守って罰されるいわれはないですものね。

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人数の差はあれ、意外にも一人あたりの所要時間はあまり変わらなかったそうです。

計算上平均6分だったといわれています。どこの家も決められた作法をきちんと守ったからなのでしょうね。

 


浪士たちを称える碑を建てたのはイタリア大使

人生最後の6分間、浪士たちが何を考えたのかはわかりません。

命を捧げた主のことだったかもしれませんし、後に残される妻や子供のこと、赤穂藩のこと、あるいは「死にたくない」と思っていた人だっていたでしょう。決死の覚悟とはいえ、やはり人間ですからね。

東京都港区高輪の旧細川家下屋敷跡には「大石良雄外十六人忠烈の跡」、同じく港区三田の松平家中屋敷跡には旧浪士たちの忠義を称える碑が立っています。

大石良雄外十六人忠烈の跡/photo by Tokyo Watcher wikipediaより引用

後者については現在イタリア大使館になっており、碑も昭和十四年(1939年)に当時の駐日イタリア大使が建ててくれたのだとか。

毎年2月4日に供養もしてくれているそうです。

当時の大使が誰なのか具体的なお名前まではわからなかったのですが、ありがとうイタリア。

でも何でそんなところを外国の方にお貸ししたんでしょうね? 元が大名屋敷ですから、良い土地なのはまちがいないですけども。

その一方で「浪士たちの遺品を預かった寺院がそれらを転売した」なんてイヤな話も残っているのですが……。仏罰当たれ生臭坊主ども。もう当たってるかもしれませんが。

鑑定団にでも出てきたらいいんですけどねえ。国宝でも個人の所有になっているものもありますので、いずれにせよきちんと保管していただきたいなあと思います。


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【参考】
国史大辞典
山本博文『これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書―江戸検新書)』(→amazon
間光風/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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