まずは質問から。
江戸時代の【糸割符制度】ってご存知でしょうか?
Yesの方もNoの方も、続けてこんな質問をさせていただきます。
糸割符の「糸」って何のことだと思います?
現代の感覚だとミシンや裁縫で使う綿の糸を真っ先に思い浮かべるかもしれませんが、歴史上でただ単に「糸」といった場合、だいたいは生糸(=絹糸)の話。
つまり糸割符制とは、生糸(絹)に関する何らかの制度ということになりますね。
衣服に直結する話なので、人々の生活に密着した重要な話なのですが、あまり注目されることはありません。
慶長九年(1604年)5月3日は江戸幕府が糸割符制度を導入した日。その内容を振り返ってみましょう。
8世紀の大宝律令に記述あり
本題に入る前に、まずは日本における絹生産の歴史を軽く振り返ってみたいと思います。
絹の歴史は非常に古く、8世紀の大宝律令には、生糸や絹織物の生産に関する記述が出てきます。
また『延喜式(10世紀)』の記述からすると、日本のほとんどの地域で養蚕・製糸が行われていたこともうかがえる。
この時点で「どの地域で良い生糸が作られるか?」というランク付けも存在していました。我が国は昔からランキング大好きだったんですね。
しかし、それは税としての話。
商品として国産の絹や生糸がいつから流通し始めたのかはわかっていません。
というのも、西陣織をはじめとした高級な絹織物に使われる生糸は、ほとんどが中国から輸入されたものだったからです。
中国では紀元前3000年頃から養蚕が行われ、一日ならぬ千年の長がありました。
そのため中国産のほうが質が良いばかりか、貿易商にとっても効率よく「高値で売れる」というメリットもありました。
国産の生糸は税の対象にもなっていて、朝廷に収められたり、皇族の衣装に用いられたり……と、限定的に使われていたようです。
平和になって織物業界が再び盛り上がる
江戸時代に入ると、少し状況が変わってきます。
室町時代からの度重なる戦によって衰退しかかっていた京の織物業界が再び活性化し、需要が伸びてきたのです。
そのためには多くの材料が必要。
では、どこで賄おうか?となると、中国から大量の生糸を輸入しなくてはなりませんでした。
国内の養蚕業は、戦国時代の荒廃で大打撃を受けてしまい、かつての半数程度の地域でしか絹の生産が行われていなかったのです。
戦国時代当時、中国の生糸を日本に輸入していたのは、マカオを拠点とするポルトガル人たちでした。

1639年のマカオ/wikipediaより引用
彼らも、日本における中国産生糸の需要はよく理解しており、「ここが稼ぎどころだ」と商機を把握。
大量に運んでは売り、運んでは売り……というボロ儲け商売を繰り返しておりました。
その対価として、日本の金や銀が大量に流出してしまうことになったのです。
あー、もったいないー!というのは江戸幕府だって百も承知。
貿易=規模のデカイ買い物なわけですから、代金を払うのは当たり前にしても、偏るとマズイわけで、現代でいう貿易摩擦みたいなものとなります。
交渉!→購入!→流通!→山分け!
生糸貿易のバランスをどうするか――。
幕府がいくつかの対策を考えたその中に【糸割符制】がありました。
それは一体何なのか?
というと幕府が堺・京都・長崎の豪商を中心に作らせた「仲間」=組合のようなものです。
中心になったのは御用商人だった茶屋四郎次郎。
彼らがポルトガル人と交渉し、中国産生糸をできるだけ安く仕入れられるようにしていました。
流れとしましてはこんな感じです。
【糸割符チャート】
交渉
↓
購入
↓
流通
↓
山分け
【①交渉】
→糸割符仲間のトップである「年寄」が、ポルトガル側の責任者と生糸の価格を協議する
【②購入】
→糸割符仲間の中で、輸入された生糸の標準価格を決めて一括購入
【③流通】
→糸割符仲間の利益になるよう金額を調整し、他の国内の商人に売る
【④山分け】
→売上から、経費を差し引いた利益分を糸割符仲間で分配する
いわゆる問屋や株式会社に似たところがありますね。
現代の商社や問屋と違うのは、糸割符仲間は長崎奉行の支配下に置かれたため、好きなようにボロ儲けすることはできなかったことです。
それと引き換えに、将軍家や幕府が外国製品を必要としたとき、糸割符仲間が優先的に取り扱う権利を持っていました。
無制限に権利があるというワケではありませんが、だいたいにおいて糸割符仲間のほうにメリットがあった制度といえますね。
堺・京都・長崎だけでなく江戸と大坂の商人も参加
大きな金額が絡むだけに、糸割符仲間とポルトガル商人との間で、摩擦・紛争が起きることもがありました。
例えば在マカオのポルトガル人・ペッソアがすったもんだの末に自爆した【ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件】も、当時の貿易に関する事件の一つ(詳細は以下の記事にて)。
-

戦国から鎖国へ後味悪い 岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件
続きを見る
さらには
【キリスト教(カトリック)禁止】
↓
【ポルトガルとの貿易を取りやめ】
という流れもあって、糸割符制の必要性が薄れていきます。
そのため寛永八年(1631年)から、制度の大改定が行われました。
従来の堺・京都・長崎に、江戸と大坂の商人たちが加えられ、それに次ぐものとして、博多などの商人にもいくらかの配分が割り当てられたのです。
対象範囲を広げて、制度の意義を少し変えることで、長持ちさせようというわけです。
また、同じく寛永八年(1631年)に幕府は、中国が長崎へ持ち込んだ糸を、ポルトガル同様、糸割符制度に従属させることとしました。
その措置を嫌がった中国船が、長崎を避けるようになってしまいます。
幕府としては当然面白くありません。
外国との接点は長崎に限定したい――。
そこで寛永十二年(1635年)に
「中国船は、長崎以外での着港と貿易を禁止!」
として、中国船の糸も絶対に糸割符へ従属させることを徹底させました。
当時はまだ平気だったとしても、いつ中国がポルトガルと同じ方法で価格を釣り上げるかわかりませんでしたからね。
統制は必要だったのでしょう。
国内の養蚕業も伸びてきて
さらに寛永十六年(1639年)。
ポルトガル船の来航が禁止されると、幕府と糸割符仲間は、当時輸入量を増大しつつあったオランダ船の糸に目をつけました。
相手を変え、同じ手法で商いを続けようとしたのです。
そして実際に、寛永十八年(1641年)にオランダ商館を出島へ移転させた頃から、オランダ船の運んできた糸も、糸割符仲間の対象としました。
江戸幕府は、主要輸入品の一つだった生糸の価格と国内流通について、念願だった【統制】を浸透させることができたのです。
さらに世情が落ち着いてくると、幕府は生糸の輸入依存度を減らすべく、貞享二年(1685年)から中国の生糸に対して輸入制限を行うようになります。
「落ち着いて養蚕ができるようになったんだから、これからは国内でガンガン生糸を作れるだろ? だから高い外国産より、安くてすぐ手に入る国産生糸を使うように^^」というわけですね。
これに応じて、国産生糸を取り扱う問屋も急増しました。
具体的な数値を見てみますと……。
徳川綱吉の時代である元禄二年(1689年)の時点で、京都で国産生糸を扱う問屋は、たった9軒しかありませんでした。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
それが徳川吉宗時代の末にあたる享保十九年(1734年)には、34軒にまで増えています。
45年ほどで約4倍も増えたんですね。
【都市部 vs 地方】という新たな対立
しかし、国内養蚕業の成長は、
【都市部 vs 地方】
という新たな対立を生むことにもなりました。
京都など古くからの織物の産地だけでなく、桐生などの地方でも絹織物の生産が活発になったのです。
特に後者の発展はめざましく、京の業者から幕府へ
「地方からの生糸ばかりが京に来ると、私達の作った生糸が売れなくなってしまいます! なんとかしてください!」
という嘆願も出たとか。
とはいえ、技術的な発展は養蚕、つまりカイコの飼育に関することが主で、急激な生産量増大とまではいってません。この時代は手工業ですから、どうしても限界はありますね。
その辺の話は、明治時代の殖産興業の一つとして、生糸の工業的な生産が始まってからまた出てきます。
また、国内の生糸生産量の増加によって、中国産の生糸の需要や、その価格を統制するための糸割符制の必要も薄れ、吉宗時代以降にその役割を終えることになりました。
糸一つで、時勢の変化や時代の流れがうかがえる。歴史の面白さですね。
あわせて読みたい関連記事
-

戦国から鎖国へ後味悪い 岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件
続きを見る
-

徳川綱吉は犬公方というより名君では?暴力排除で倫理を広めた人格者
続きを見る
-

実はユルい「士農工商」の身分制度|江戸時代の農民や町人は武士になれた?
続きを見る
-

未開の時代に8度も蝦夷地(北海道)を探検した最上徳内って何者なんだ?
続きを見る
-

開国の圧力迫る幕末時代に江戸幕府はどうやって海外情報を得ていたか
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「生糸」「糸割符」








