大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵

江戸時代

『べらぼう』桐谷健太演じる大田南畝は武士で狂歌師「あるあるネタ」で大ヒット

江戸時代も折り返し地点を過ぎたころ、幕政を担った田沼意次は、米ではなく貨幣を重視する経済への転換を図りました。

かつて賄賂の権化のように語られた田沼ですが、そう単純に悪人などとは言い切れず、彼の経済改革も頓挫したように見えて実情はそうとも限りません。

百万都市である江戸では、出版や文化で食べていく新しい道が作られたのです。

要はエンタメを武器に暮らしていくわけで、現代であれば真っ先に頭に浮かぶのがYoutubeやTiktokあたりでしょうか。

江戸時代の最先端メディアは紙ですから、当然、そこが舞台になり、この流れは支配階級であった武士にもおよびます。

刀ではなく筆で身を立てる武士も現れ、その筆頭の一人と言えるのが大田南畝でしょう。

幼い頃から秀才として知られた南畝は、自身が学問で得た教養を活かしながら、江戸後期のエンタメに大きな影響を与えてゆきました。

その姿が大河ドラマ『べらぼう』でもクローズアップされることになり、ついに第20回放送に登場。

個性豊かな桐谷健太さんのキャラクターと相まって、今後の劇中で蔦屋重三郎の出版活動に多大な影響を与えていくことが示唆されています。

それは一体どのようなものになるのか?

本記事では、史実の大田南畝の事績から振り返ってみましょう。

大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵

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御徒町に生まれた神童

ときは徳川家重の時代――寛延2年(1749年)、大田正智と妻・利世夫妻のあいだに長男・直次郎が生まれました。

御徒町に住む下級武士の子で、この家は七十俵五人扶持。

辺りは下級武士が狭苦しい家を並べる、よくいえば静謐、悪くいえばパッとしない町です。

直次郎は幼い頃から聡明でした。

周囲から「ありゃ神童だ」と呼ばれるような才気があったのでしょう。

教育熱心な母・利世は、我が子の師匠を面接して選ぶほどです。

直次郎は、そうして母が選んだ多賀谷常安のもとに8歳で入塾。

基礎的な学力をみっちりと身につけた直次郎は、15歳の若さで「江戸六歌仙」と称される内山賀邸(後の椿山)に入門します。

 


輝かしき青春時代

同世代の子どもが通う藩校や寺子屋と異なり、文人の塾ともなれば、出身階層も年齢も異なる才人が集まっている。

親子ほどの年齢差があろうと、才人同士は惹かれ合い、響き合います。

若き直次郎は、この塾で才知を磨く文人たちと交友を深め、切磋琢磨しました。

その中には後に「狂歌三大家」として名を並べる朱楽菅江(あけら かんこう)もいました。

山東京伝が描いた朱楽菅江/国立国会図書館蔵

彼らと共に学んだのは、国学に漢学、和歌、狂歌、漢詩、狂詩と多岐に渡り、この自由度の高い教育や読書空間こそ、近代日本の特性があります。

例えば、科挙のある清や朝鮮では、どうしても受験対策が学問の目的と化してしまいます。

教科書の中には、金も美女も地位もあると教えられ、その目的のために学ぶことは確かに効率的かもしれません。

しかし、人生の目的や道を求める学びとは何かが違う……そんな違和感はつきまとうものです。

日本の武士は、家柄で身分が固定され、科挙の成績で地位が決まらぬことを嘆く。

一方で科挙のある清や朝鮮では、学問が科挙目的になることに息苦しさを覚える。

そんな教育環境がありました。

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直次郎は、父にならい17歳で御徒見習いとして幕臣となり、同時に学問も続けました。

18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者・松崎観海にも師事。

幅広い階層と学問を深めつつ、武士としての教養も身につけます。

直次郎の学びの時間は、青春そのものでした。ここからは文人として、号の南畝で呼びましょう。

彼の回想によると、こんな思い出があります。

気の合う塾の仲間と勉学を楽しんでいた。

彼らは塾で話し合うだけでは飽き足らず、インスピレーションを得るために旅をする。

当時のことですから、交通手段は当然脚――まだ二十歳ころの青年とはいえ、何十キロもぶっ通しで歩き回るのです。

しかも宿では酒を飲み、深夜まで話しこみ、そして翌日になったらまた歩く。雨に降られても歩き続ける。

仕事はしないのか?

これは学問と言えるのか?

そう思わず言いたくなるほど羨ましい長旅のことを、彼は回想していました。

 

狂詩集『寝惚先生文集』がベストセラーとなる

大田南畝は明和3年(1766年)、漢詩作りの案内ともいえる『明詩擢材』(みんしてきざい)を発刊。

明代の詩で使われている用語の分類集でした。

注目すべきは「明代の詩」というところでしょう。

日本では長らく唐詩が至高のものとされ、宋代以降はあまり馴染みがありません。

現代の漢文教育にもその影響は残されており、教科書に掲載される詩は唐代が多い。

明代となると、漢語の意味も唐代と比べてかなり変化しており、馴染みも薄くなっている。文法も変わってきていますし、当然、流行も違います。

しかし、そこにかえって清新さを見出すこともできるといえます。

あえて明詩を取り入れることは、当時の江戸文人にとってはトレンド先取りのようなものです。

翌明和4年(1767年)、同門の平秩東作に見出され、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行され、評判となります。

同門といっても平秩東作は、親ほどの年上となります。

彼は交流ある【書物問屋】の須原屋市兵衛に見せたために、『寝惚先生文集』出版の目処がついたわけです。この作品には平秩東作と須原屋市兵衛とも親しい平賀源内も惚れ込み、推薦文を書いてくれました。

江戸随一のインフルエンサーたる平賀源内の推薦ともなれば、大きな話題、天才少年の華々しいデビューとなったわけです。

狂詩とは、狂歌の漢詩バージョンです。

当時の文人は漢詩も読めました。

漢詩のルールに添いつつ、皮肉やユーモアを交えて詠む漢詩を挿し込み、これが全国各地まで広まるほど、大ヒットとなるのです。

 

「武士の鬱屈あるある」が武士にウケ

興味深いのは「狂詩」というところでしょう。

町人にまで教養が広まった時代とはいえ、漢学は武士のもの。

武士たちは藩校に通い、四書五経を読む。武士として儒教倫理を叩き込まれ、真面目に学んでいるけれども、金持ちにはなれない。

このころは武士より商人の方がよい暮らしをしていることなぞ、珍しくもなんともありません。

現在まで残されている建造物でも、豪商の屋敷の方が武家屋敷より豪華な造りであることはしばしば。

食にしたって、江戸時代に流行した料理といえば、町人のファストフードであった天麩羅です。

屋台の天ぷら屋/wikipediaより引用

江戸っ子が天麩羅をハフハフと頬張り、武士は自宅で貧乏メシの定番である煮大根をかじる。

そんな世の中ですから、町人としても武士を「貧乏くせぇ連中だ」と小馬鹿にする気持ちが生じてきてしまう。

一方、武士としてもそんな暮らしが辛い。要は、町人が羨ましいのです……。

そんな「武士の鬱屈あるある」を漢詩文に載せたところ大ヒット!

貧乏がテーマのものも多数あり、「そうだよ、これなんだ!」とスカッとする武士が少なくなかったとか。だからこそウケたのです。

同年には塾の仲間と漢詩集『牛門四友集』を刊行しました。

大田南畝が若き日に詠んだ漢詩には、彼の人生観があらわれています。

安酒を飲み、琴を奏で、その日を楽しむのがよい。人生なんて短いものだ。

成功や名声を求める意味があるのか?

不運を恨んでも仕方ない。俺の周りは皆友達。酒がないなら着物を質にいれればいい。川みたいに人間も流れていけばいいのだ――。

まるで東洋文人が憧れる「竹林の七賢」のような境地が見て取れます。

『べらぼう』でも初登場を果たした南畝は、日で灼けた畳と破れた障子すら「めでてえな」と開き直っていましたが、ただの強がりを超越した文人の境地といえるのです。

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とはいえ、南畝にも鬱屈がないわけではありません。

まだ若いのに出世を諦めているような悟りはいったい何なのか。

江戸後期の御徒町生まれ、そんな武士の青年が、魏晋時代、竹林にいた文人のような悟りを得ている。

なんとも興味深い人生観です。

ソロデビュー作『寝惚先生文集』以降、黄表紙も出したそうですが、こちらはヒットをおさめられなかったようです。

そうした世の不沈に虚しさを感じていたのでしょうか。

 


江戸の狂歌ブームを牽引する

明和6年(1769年)ころ、大田南畝は四方赤良と名乗り、狂歌サークル「四方連」を率いることになります。

狂歌は上方からの流行であり、江戸は後発。

それがたちまちブームに火がついてゆきます。

南畝がブームを牽引できた理由は、いくつも考えられます。

・確かな教養

幼児から培ってきた和漢の知識は確たるものがあり、作品のセンスのよさに周囲は舌を巻きました。

同塾中心とした人脈。愉快で楽しめる文人仲間が多く、その口コミで広がるだけの要素は十分にあります。

・田沼時代というボーナス

当時は貨幣経済への転換を図る田沼意次の時代であり、金回りが良い時代でした。

商人たちも知識やウィットに金を使える時代です。

田沼意次/wikipediaより引用

時代を読み解く南畝は、今風で言えばパリピでした。

爛熟した文化のある江戸では、広報のためのイベントも開催されます。

安永5年(1776年)から8年(1779年)にかけては、しばしば大規模な「観月会」の中心部にいました。

こうした交流を通し、さらに南畝の人脈は広まります。

江戸のパーティは文人なら誰でもできるか?というとそうではなく、陰キャ文人の滝沢馬琴あたりにはどだい無理な話です。

安永9年(1780年)頃には、出版業に乗り出しつつあった蔦屋重三郎のもと、『嘘言八百万八伝』を出版。

それまでの作風とは異なり、荒唐無稽なドタバタを描く黄表紙でした。

目端のきく蔦屋が彼に出版を依頼したのは、自然な流れだったのでしょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用

そんな華やかな安永年間に、南畝は山東京伝とも知り合ったとされています。

天明3年(1783年)、朱楽菅江と共に『万載狂歌集』を編集。

この頃からは田沼政権下の勘定組頭・土山宗次郎というスポンサーも得て、吉原に通うようになりました。

吉原松葉屋の新造・三保崎を身請けし、自宅の離れに住まわせてもいます。

このころには青年期の清貧を夢見た南畝とは、かなり異なる姿が浮かんでくるのです。

しかし自由だった田沼時代も、ついに終わりがやってきます。

 

田沼バブルが弾け 松平定信時代へ

天明7年(1787年)、田沼意次の後任者である松平定信は、それまでの路線をガラッと方向転換。

【寛政の改革】を推し進め、南畝のスポンサーである土山宗次郎は斬首されました。

松平定信/wikipediaより引用

さらには【処士横断の禁】という、南畝のように武士でありながら文人活動する者を狙い撃ちにする政策が出されます。

風紀も取り締まられ、蔦屋重三郎や山東京伝ら文人も取り締まりの対象となりました。

南畝にとっては悪夢のような事態です。

周囲は取り締まりを受ける。

自分が該当する禁令が発せられる。

幕府批判の狂歌作者ではないかと噂される。

贅沢が取締られているが、南畝も羽振りがよかった。

スポンサーとされた土山の死。

土山の罪状の中には「遊女と妾としたこと」も含まれていました。

御家人である南畝も、同じことをしているのです。

さらに当時は相次ぐ天災、飢饉、米価急騰、米騒動といった事態が江戸のみならず、全国各地で起こっています。

寛政元年(1789年)には、黄表紙『鸚鵡返文武二道』を出版した恋川春町が急死を遂げました。

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用

春町は作品が幕府批判とみなされ、呼び出しを受けていた。

しかし幕府の追及に応じず、急死したのです。

彼も武士であり文人であるという、南畝と似た境遇の人物であり、幕府を恐れたための自殺とも囁かれました。

こうした世情の中、南畝は狂歌作りをやめ、文人としてはささやかな活動に終始します。

真面目に本業の御家人としての勤めを果たしていたのです。

 


不惑を過ぎて「学問吟味」にトップ合格

寛政4年(1792年)、大田南畝は新設された儒生試験「学問吟味」を受験しました。

44歳で、文人として名を馳せてなお、挑戦を忘れなかったのです。

しかし結果は不合格。噂では試験官が彼の文人としての名声に嫉妬し、落としたともされます。あるいは土山宗次郎との交流が祟ったのだとも。

寛政6年(1794年)、南畝は再び試験に挑戦し、今度は合格します。

そして湯島聖堂で行われる第五次まである最終試験に挑み、小姓組番士・遠山景晋とともに甲科及第首席合格を果たしたのでした。

田沼時代のバブルに乗った南畝。

彼は松平時代の弾圧をかいくぐり、日本版科挙ともいえる試験にトップ合格を果たしたのです。

結果、彼は武士の出世ルートに乗ります。

狂歌がいくら詠めても出世できないとされていた南畝が、寛政8年(1796年)には、支配勘定に任用。

さらに享和元年(1801年)には、大坂銅座に赴任しました。

中国では銅山を「蜀山」といったのにちなんで「蜀山人」の号を用い、狂歌を再開させると、大坂滞在中も、物産学者の木村蒹葭堂、国学者・上田秋成らと交流を深めます。

上田秋成/wikipediaより引用

文化年間ともなると【寛政の改革】も終わり、充実した日々となります。

武士としても加増され、文人としても名を馳せる日々が到来しました。

 

俺が死ぬとは こいつはたまらん

文化4年(1807年)、隅田川に架かる永代橋崩落事故を題材にした『夢の憂橋』を出版。

その5年後となる文化9年(1812年)には息子の定吉が心の病が発症し失職してしまいます。南畝は隠居できず、働き続けることとなりました。

当時としてはかなり長生きだった南畝は、文政6年(1823年)まで生き永らえ、登城の道で転び亡くなりました。

享年75。

辞世の歌が残されています。

今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん

狂歌で名をなした彼らしい最期でしょう。

江戸の文人は、わびしい晩年を迎えることが多いとされます。

武士と文人を兼任すると、両方成功することは難しいともされます。

そうしたルールからはみだし、文人としても名を成し、武士としても成功をおさめた大田南畝。

では、果たして彼は幸せだったか?

晩年まで働き詰め、それが死因となったことは、本人からすれば嫌なことであったかもしれません。

青年時代に夢見た、清貧なれど悠々自適な市隠(しいん・都市部に暮らす隠者)とも異なる人生ではあります。

そうはいえども人物としては魅力的であり、後世には様々な伝説も語り残されていました。

現代では影が薄くなった大田南畝。

『べらぼう』でまた注目されることを願いましょう。

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【参考文献】
小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』(→amazon
沓掛良彦『大田南畝:詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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