岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

16世紀半ば〜18世紀ごろに用いられたスペインのガレオン船(wikipediaより引用)と

宣教師・切支丹

戦国から鎖国へ後味悪い 岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

慶長17年(1612年)3月21日は岡本大八という戦国武将が「火あぶりの刑」で処刑された日です。

まだ戦国の気風が残っている時期のこと。

それでも「火あぶりの刑」に処されるなんて、岡本大八とやらはよほど素行が悪かったのか? もしかして貴人の誰かでも殺したのか?

答えは微妙でして……。

岡本大八は、家康の側近だった本多正純の家臣でありながら、戦国大名有馬晴信を相手に贈収賄詐欺を働き、大金をせしめたのです。

しかも、単なる詐欺事件で終わりません。

江戸時代の重要な政策である「キリスト教の禁止に繋がったのでは?」という出来事へと発展していくのです。

何がなんだかわかりづらいかもしれませんが、本記事での注目事は2つあります。

岡本大八事件(1609-1612年)】

ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件(1608-1610年)】
です。

九州の戦国ファンには割と馴染み深い事件でしょうか?

しかし、高校の授業などで日本史を専攻していても、キリシタンに特別な興味でもなければあまり触れることのない同事件。

知っていると知らないとでは、やはり鎖国の理解にも影響してくると思うので、今回、いささか丁寧にあらましを追ってみました。

さっそく振り返ってみましょう。

 


コトの発端は朱印船貿易の船員だった

西洋をシャットアウトするかどうか――これらの事件は、まだ家康が迷っていた頃に起きたものです。

対日貿易を独占しようとするポルトガルと、それを切り崩して自国の利益増を狙うイスパニア(スペイン)やオランダ。

彼らの対立だけでなく、自らの保身と日本でのキリスト教を保とうとする長崎奉行・日本イエズス会の存在も関係してきます。

前提の話からして、既にドロドロっす。

事件の発端は朱印船でした。

伽羅木(きゃらぼく・木材にしたり果実を食用とする木)購入のため、徳川家康が有馬晴信に命じてチャンパ(ベトナム)へ派遣した貿易船がマカオに寄港したとき、船員がちょっとした暴動事件を起こしてしまいました。

当時活発に行われていた朱印船貿易(角倉船団)/国立国会図書館蔵

当時のマカオはポルトガル領だったので、責任者は当然ポルトガル人です。

アンドレ・ペッソアという人でした。

彼は武力を持ってこの暴動を鎮圧し、日本人に多数の被害者が出てしまいました。

そこで彼はこう考えます。

「このまま黙っとくとマズそうだから、一応ちゃんと手続きを踏んで、日本にも話を通しておこう。でないと、貿易ができなくなって本国に怒られる」

そして自らノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号に乗って長崎へ来航したのでした。

 


「直接この国の一番偉い人に説明したい」

ペッソアは、長崎奉行・長谷川藤広に事件の調書を提出。

さらに「直接この国の一番偉い人に説明したい」と申し出ました。

しかし、藤広は『ただでさえキリスト教や西洋に対する目が厳しくなっているのに、こんなことを大御所様に知られたら国交断絶になってしまう。なんとか穏便に済ませたい』と考えたようで……。

徳川家康/wikipediaより引用

そのため、こんなコトを言い出します。

「事件の詳細は伏せて、ペッソアさんの書記の人を使者として駿府に送りましょう。私の身内を道案内と取次役につけますので」

ペッソアもこれを受け入れ、使者が出発しました。

しかし、別の問題が噴出します。

家康に物を売ろうとしていたポルトガル商人らが、先買権や日本との取引関係の改善などに対して不満を訴え、ペッソア自身が駿府に行くことを強く求めたのです。

実際は、イエズス会士らが日本の状況などを説明し、改めて止めたので実現には至りませんでしたが、藤広とペッソアの関係が悪化する元になりました。

そりゃあ、一度決まって実行に移しかけていること、しかも国同士の付き合いに関わることを、外野にギャーギャー言われて変更するの・しないのって話になったら、お互いに気分が良くないですよね。

藤広はその辺がよほど頭にきたらしく、ポルトガル人たちへの報復を考えるのでした。

 


ペッソア処刑がアッサリ確定

藤広は、朱印船を派遣した有馬晴信に対してこんな密告をしました。

「今、日本に来ているペッソアという奴が、マカオであなたの船の乗組員をブッコロしましたよ! これは大変なことですから、ぜひ大御所様に言上して処罰していただかなくては!」

おいおい、藤広さん、さすがにそれは酷いって。

そう泣きたくなるのがペッソアでしょう。

その頃、駿府では別の西洋人たちがやってきていて、家康たちがその対応をしているところ。

平戸に入港していたオランダ船からの使者と、上総で難破して日本側に救助されていた前フィリピン長官・ドン=ロドリゴ=デ=ビベロが、相次いで家康に謁見しておりました。

彼らはそれぞれ、自国と日本との交易を望んでおり、家康も「いいよ」と返事しています。

つまり、相手がポルトガルでなくても、西洋の文物を日本に入れられるルートが作られつつあったのでした。

そのため、晴信から朱印船の件を聞いた家康はアッサリ命じます。

「付き合いがめんどくさくなりそうなポルトガルはもういいわ。ペッソアとかいう奴は、責任取ってもらうってことで処刑。有馬のほうでカタをつけるように」

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用

藤広も長崎奉行の権限を使って、ペッソアの取り調べをしようとしていました。

危険な空気を感じ取ったペッソアは船にこもって出港の準備を開始。

さらにそれに気付いた藤広も警戒し、晴信が駿府から長崎に帰ってくると、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を拿捕する準備を始めました。

まさに、一触即発という状況です。

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