岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

16世紀半ば〜18世紀ごろに用いられたスペインのガレオン船(wikipediaより引用)と

宣教師・切支丹

戦国から鎖国へ後味悪い 岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

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ヘタすりゃポルトガルと日本の全面戦争

慶長十四年十二月(1610年1月6日)。

日和待ちをしていたノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を、有馬家の兵が攻撃しはじめました。

当然、相手からの大砲等による反撃で、有馬側も大きな損害を受けたのですが、数日後、ついに船は炎上します。

ペッソアは火薬庫に自ら火を放ち、船と共に沈んだと伝わっています。

16世紀半ば〜18世紀ごろに用いられたスペインのガレオン船/wikipediaより引用

もう少し後の時代であれば、ポルトガルと日本の全面戦争になってもおかしくないようなこの事件。

幸い、両国の距離が離れており、当時の航海技術ではポルトガルから大軍を即座に送るのは難しかったことなどから、そうはなりませんでした。

しかし何もなく済むはずもありません。この事件により、長崎-マカオの通行は一時止まってしまいました。

ただし、経済的な理由もあって、双方ともに早期解決を望んでいます。

マカオの経済は長崎との貿易に強く依存していたばかりか、この時代は日本側も関係を完全に断ち切ることは不可能でした。

生糸の生産量がさほど多くなく、中国からの輸入に頼っていたため、ポルトガル船が運んできてくれないと困ったのです。

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そこで関係修復への交渉は早めに行われました。

ポルトガル人からは、有馬家の兵などに対して処罰が求められました。

が、家康によって「今回の件に対して、さらなる処罰は認めないが、貿易は今まで通りにする」というお墨付きが出されます。

本来、この件はそこで片が付くはずでした。

というか、ポルトガルとの間の話はこれでカタがついています。

この先こじれてくるのは、国内での話。

ここから先が、いよいよ岡本大八事件となります。

 


旧領、戻したいよね?だったら、わかるよね?

ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号攻撃の際、有馬晴信の監視役を務めていたのが岡本大八です。

家康の重臣・本多正純の家臣であり、晴信などの外様大名からすれば「お偉いさんに渡りをつけてくれる人」みたいなポジションですね。

時と場合によっては、ぶっといパイプにもなりうるし、目の上のたんこぶにもなりうる立場です。

大八は、当初の役割どおり監視役の務めを果たしていながら、そこで変な欲を出します。

「この件の首尾については、私から大御所様にきっちりご報告しますね。きっと鍋島領になってしまった有馬氏の旧領も戻ってきますよ。でも、そのためにはいろいろと入り用なんですよねぇ……(チラッチラッ)」

つまりは晴信に対して“賄賂”を要求したのです。

長崎出島(異国叢書より・シーボルト来日時)/国立国会図書館蔵

大名にとって、旧領回復は何よりの悲願。晴信に限らず、どこの大名でも同じです。

旧領を取り戻すためなら、大八へ多額の賄賂を贈ることをためらわなかったのでしょう。有馬晴信は言うがまま要求に応じます。

しかし、賄賂を要求する人間に、誠意なんてあろうはずがないのです。

その後、何年経っても、旧領回復の連絡が届きません。

シビレを切らした晴信は、大八の主人である本多正純に事の次第を聞きます。

当然、大八は「有馬殿から賄賂もらったんだって?」と正純に詰問されることになりました。

そして後日、駿府において大八と晴信の対決が行われ、大八に非があることが確定、彼は投獄されます。

事件はここでは終わりませんでした。

 


窮鼠猫を噛む?大八vs晴信で最終的に……

大八が「有馬殿は、長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしています!」と訴えたのです。

しかもこれが大八の嘘八百というわけでもなく、晴信にも後ろめたいところがあったものですから、さあ大変。

再び大八と晴信の対決が行われました。

結果、晴信もこの件については弁明できず、最終的に切腹を命じられています。

彼はキリシタンだったことから、自殺である切腹を拒み、家臣に斬首させたとか……。

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用

なんとも後味の悪いこの事件。

まずはノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件で、ポルトガル=カトリックに嫌気がさしていた幕府がいました。

さらに、岡本大八事件の当事者である大八と晴信がキリシタンだったこと。

事の経緯にイエズス会が絡んでいたこと。

こういった流れから、一連の事件は、幕府がキリスト教への感情を悪化させる大きな理由になったのです。

江戸幕府のキリスト教禁止政策については「キリスト教の考え方が、幕府にとって都合の悪いものだったから禁じられた」とまとめられがちです。

しかし、どちらかというと「キリスト教国家やキリシタンが立て続けにアレな言動ばかりしたので、幕府がイヤになった」という要因も小さくない気がします。

外国でトラブルばかり起こすよそ者を進んで迎え入れたいとは、フツー思わないですよね。

この後、1616年には欧州船の出入りが平戸・長崎に制限され、1624年にはスペイン船の来航そのものが禁止……というように入港制限は着実に進んでいきました。

さらに、1637年にはかの有名な【島原の乱】が起き、幕府からキリシタンへの悪印象は覆りようのない状態になっています。

これまた有名な【隠れキリシタン】は残りましたが、その話は以下の記事にて。

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鎖国までの流れの中に、実はこういう事件があったことも覚えておいて損はないんではないでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「岡本大八事件」「ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号事件」

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