興国元年=暦応三年(1340年)3月5日は、足利基氏(もとうじ)が誕生した日です。
室町幕府・初代将軍である足利尊氏の四男で、正室生まれとしては二人目。
側室生まれの兄である竹若丸と足利直冬は生年月日がハッキリしていませんから、正室と側室の差がわかりますね。
同母兄で後に二代将軍となる足利義詮(よしあきら)も生年月日が記録されています。
今回は、この足利基氏の生涯を振り返ってみましょう。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用
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9歳で鎌倉へ送られ公方となった
足利基氏について、幼少期の目立った逸話はありません。
9歳のときに鎌倉公方として鎌倉に送られているので、それまで心身共に健康に育ったのでしょう。
彼が送られるまでは、兄の足利義詮が関東を任されていました。
しかし父の足利尊氏と叔父の足利直義が仲違いして【観応の擾乱】が勃発すると、尊氏が義詮を「戦になりそうだから戻ってこい」と呼び戻します。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
そこで入れ替わりに鎌倉へ入ることになったのが基氏でした。
家臣が付けられたとはいえ、よくもまぁ9歳の子供を遠く離れた関東へ送ったものです。
このくらいの歳なら「元服まであと数年」というところではあるので「もうデカくなったしヘーキヘーキ」と判断されたのでしょうか?
尊氏の脳内を推し量ろうとするのは至難の業なので、とりあえず先へ進みましょう。
有力者が補佐につき父と共に戦場へ
鎌倉へやってきた足利基氏を支えたのは、上杉憲顕(のりあき)と高師冬(こうの・もろふゆ)でした。
上杉憲顕は、尊氏母方の従兄弟であり、高師冬は高師直の従兄弟で養子。
名実ともに当時トップクラスのお偉いさんたちです。
最初のうちこそ基氏に協力していた二人でしたが、こにも観応の擾乱の余波が押し寄せます。
憲顕は尊氏の弟・足利直義に、師冬は同族の高師直に味方することとなり、基氏のサポート役が仲間割れするという最悪の展開になってしまいました。
そして、その上杉能憲によって高師直・高師泰兄弟が暗殺されると、高師冬もまた、上杉憲顕ら直義派の武将たちに追い詰められて、自害。

かつて足利尊氏の肖像画とされ、近年、高師直だという説が根強くなった『守屋家旧蔵本騎馬武者像』/Wikipediaより引用
この間、基氏は他の家臣に守られて、戦火を避けながら関東のあっちこっちを移動し、執務を行っていたようです。
また、実父尊氏と叔父直義の仲裁をしようと考えるも尊氏に許されず、安房に行っていた時期があるとかないとか。
【観応の擾乱】時点での基氏は12歳程度だったことを考えると、幼いながらに「一族の結束が何よりも大事」という考えを持っていたのは立派ですね。
というか、むしろ大人どもが何してんねん……という感じでしょうか。
武蔵野合戦
何はともあれ、文和元年(1352年)に尊氏が直義に勝利を収めると、足利基氏も鎌倉に戻り、元服を済ませました。
しかしよりによってその翌日に直義が亡くなり、上杉憲顕が激怒して反尊氏の兵を挙げてしまいます。
更には新田義貞の遺児である新田義宗・義興らも呼応。
後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じて新田氏の本拠・上野から怒涛の勢いで鎌倉へ南下してきました。
この間、尊氏は鎌倉に滞在していたため、自ら新田軍を迎え撃ちます。
【武蔵野合戦】と呼ばれる合戦です。

武蔵野合戦の一つ「笛吹峠の戦い」を記す石碑
ちなみにこのとき上杉・新田に同調した武士の中に、鎌倉幕府の生き残りである北条時行もいました。
時行にとっては最後の戦になるので、マンガ『逃げ上手の若君』でもクライマックスとして描かれるかもしれません。
基氏もこの頃は父と同行しており、各地を移動していました。
おそらくは戦の実地訓練といったところだったのでしょう。
文和二年に尊氏が京都へ向かうと、基氏は新田氏への抑えとして後を任され、武蔵の入間川に滞在します。
これがなかなかに長く、延文四年(1359年)までの六年間に及びました。
その間、基氏は「入間川殿」とも呼ばれていたようですが、もちろん幼い基氏の単独行動ではなく、執事として畠山国清がつけられています。
延文三年(1358年)10月10日、新田義興が謀殺されると、新田氏に同調していた関東武士は基氏一派につくようになりました。
すると頃合いと見たのか。基氏は同時期に畠山国清の妹を妻に迎え、その後、鎌倉へ戻りました。
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