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【足利基氏】
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禅や文学などの文化活動を奨励
一方その頃、京都では足利尊氏が亡くなり、足利義詮が2代目を継承していました。
幼い頃から父と叔父、そして周囲の人間の争いを見てきた足利基氏は「自分は二度とその轍を踏まないぞ」と決意し、義詮と良い関係を築いていくべく努力を重ねます。

足利義詮/wikipediaより引用
上方で戦になった際には、兄のために関東の兵を集め、基氏にとっては片腕となる畠山国清にその指揮を任せました。
しかし、ここで思いも寄らないことが起きてしまいます。
なんと国清が基氏に背いてしまうのです。
仕方がないので基氏は康安元年(1361年)11月に国清の討伐を始め、翌年には関東から追放。
手元を離れていた上杉憲顕を呼び戻して越後守護に任命し、さらに関東管領の職も与えると新たな問題が生じてきました。
越後守護の地位は、かつて尊氏が宇都宮氏綱という人に与えたものでした。
氏綱は観応の擾乱で武功を挙げてこの職をもらっていたので、ぽっと出(に思える)の上杉憲顕にかっさらわれては、当然腹が立ちます。
すると足利基氏が「待ってました」とばかりに宇都宮征伐へ出向くのですが、肝心の氏綱はアッサリ降伏するため、戦いはさほど長引かずに終結します。
ともあれ、こうして鎌倉府は基氏と憲顕によって地固めができました。
ここで基氏は「別の方向で鎌倉を豊かにしよう」と思い立ちます。
尊氏たちが世話になっていた僧侶・夢窓疎石の弟子である義堂周信を招き、禅や文学を奨励したのです。

夢窓疎石/wikipediaより引用
周信は基氏の息子・氏満の教育係も務めているので、公私共に信頼関係があったものと思われます。
基氏は和歌と笙(しょう・雅楽などで使われる日本古来の楽器)を嗜み、美食を愛する人物だったそうなので、周信としても付き合いやすかったのでしょう。
周信自身が「私と基氏とは君臣を超えた付き合いをしてきた」と日記に書いているくらいですから。
また、義詮としてもやはり骨肉の争いに対しては「防がねばならない」という気持ちが強かったようで、八幡宮に
「兄弟相護、誓死不変」
という誓書を収めた……という話が残されています。
尊氏が直義に関して似たような願文を清水寺に収めたことがあるのですが、その後どうなったかを考えるとフラグのようですね。
それに源氏の氏神である八幡神なら、頼朝と弟たちをはじめとした源氏のアレコレも見ているわけで「お前の一族仲間割ればっかじゃん」と思われていそうです。
基氏の死後 室町幕府と鎌倉府は決裂
しかし、基氏は正平二十二年=貞治六年(1367年)4月に突然亡くなってしまいました。
まだ28歳。
死因は麻疹だといわれていますが、この時期の鎌倉府に同じ死因の人がいなさそうなので、ちょっとアヤシイですね。
麻疹は伝染病ですし、基氏は健康に難があったわけでもなさそうですし、その状況で彼だけがピンポイントで亡くなるというのは、どうにもこうにも不信さが漂います。
ちなみに足利義詮も同じ年の12月に亡くなりました。怪しすぎ。
「兄弟仲良くって、そういう意味じゃない!」と、本人たちが一番言いたかったことでしょう。
ついでにいうと、義詮の息子である三代将軍・足利義満と、基氏の息子・氏満のあたりから
【幕府vs鎌倉府の対立】
が始まり、関東における戦国時代の遠因ともなっていきます。
まあ、世代が下るとどんどん血筋が遠くなっていきますし、直接顔を合わせていなければ親しみや「協力しよう」という気も薄くなるのは致し方ないところですが……。
義詮も基氏も草葉の陰で泣いてそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
国史大辞典