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【慶喜の15代将軍就任】
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福沢諭吉も悔やむ あのとき叩き潰しておけば
明治時代になってから、幕臣としての誇りを捨て切れぬ福沢諭吉は嘆きました。
外国勢力の助力を得てでも【第二次長州征討】で奴等を叩きのめしておけば幕府は滅びなかった――そう悪しきターニングポイントとして振り返っています。
福沢の見解には、もうひとつ面白いものがある。
腰抜け勝海舟が【江戸城無血開城】をしたのは恥晒しだ!と批判をしています。
これに反論したのが徳富蘇峰。
あそこで戦っていたら海外の干渉を受ける。それを避けるためであった……としているのですが、その過程で福沢は言い切っています。
外国の干渉なら第二次長州征討の時から既ににあったではないか!
これはその通り。
江戸の幕閣はフランス式陸軍調練に励み、兵器も購入しています。既に幕府はフランスの干渉を受けていました。
それのみならず第二次長州征討はイギリスの思惑あっての長州勝利といえる。
結果、長州藩は第一次長州征討から第二次長州征討にかけて、疾風怒濤の再起を果たすのです。
元治元年12月15日(1865年1月12日)に起きた高杉晋作の【功山寺挙兵】は銅像まで建てられるほど。
実際の挙兵地は馬関でしたが、司馬遼太郎が作中で章タイトルに功山寺を入れてしまったため、誤認が生じることになった悩ましい話です。
【第二次長州征討】は、この手の“神話”に彩られすぎて、実像がわかりにくくなっています。それを念頭に置き、話を進めましょう。
福沢諭吉ら幕臣の意見を参照すれば、この第二次長州征討にはもっといい選択肢がありました。
・そもそも兵を挙げない
・兵を挙げたからには徹底的に敵を叩き潰す
結果は、そのどちらでもなく、責任は京都の【一会桑政権】にあります。
彼らは京都から江戸の将軍に対し「自ら出馬なさるべきだ」とせっつきました。
幕閣が江戸に戻そうとすると、朝廷が割り込んできてうまくいかない。
身動きの取れない家茂。
このとき江戸には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が迫っていました。
「まだ開港されていない神戸港はどうなったのか?」というわけで、イギリスのパークスは特に強硬でした。
彼らイギリスは文久3年(1863年)に【薩英戦争】を戦い、方針転換していたのです。
武力で日本を制圧するより、薩摩藩らの反幕府勢力を焚きつけ、親英政権を打ち立てた方がうまみがあるのではないか?
姿勢が固まったパークスは、同僚たちですら当惑するほどの強硬姿勢で幕府に迫ってきます。
しかし、一方で京都の孝明天皇は攘夷を捨て切れません。
孝明天皇の手前、さき延ばしにしていた横浜鎖港も忘れ、また神戸の港を開くなんて不可能に近い。
板挟みになった家茂は、将軍職を投げ出すことすら視野に入れたとされます。
ただし、追い詰められて自暴自棄になったわけでもなく、大御所体制の構築も考えられます。
第二次長州征討失敗…倒幕序曲
【第二次長州征討】では、あまり注目されない、しかし見落とせない要素があります。
イギリスがこのとき、幕府に対してこう迫っていたのです。
「戦闘時に、我々の艦隊が攻撃されては困る。海上は通行しないでください」
さんざん外国船を砲撃していたのは長州なのに、そっちには何も言わず、幕府の手足だけを縛るような制限がつけられたのです。
そもそも幕府が指揮を託した西郷隆盛だって全くヤル気がありません。
慶応2年(1866年)に【薩長同盟】が締結されていたからです。
そんな絶望的な状況の最中、徳川家茂は長州征討で先頭に立つことも、大御所になることも、江戸へ戻ることすら叶いませんでした。
慶応2年7月20日(1866年8月29日)、病に倒れた家茂は、大坂城で命を終えてしまいます。
享年21。
江戸城の大奥で、和宮は夫が贈ってきた西陣織を抱きしめ、涙に暮れたのでした。
死の間際、家茂は田安亀之助(のちの家達)を後継者に指名しました。
しかし彼はまだほんの幼児にすぎず、将軍職は慶喜に巡ってきます。
慶喜が将軍になればいいと期待していた一橋派の面々も、すでに白けているし、島津久光はむしろ恨みと思っている。
慶喜に忠義を尽くしていたかのような渋沢栄一ですが、彼は別の意味で焦りました。
かつて倒幕を志し、テロ計画が発覚してからは、捕縛を逃れるため一橋家に仕えていた。
それが今また情勢が代わり、今度は自分たちが倒される幕府側になってしまった――。
慶喜自身にしても「幕府はもうもたない」という認識は大いにありました。
なんとしても「将軍にだけはなりたくない」とゴネたという話もあります。
なんせ最初の仕事は、無様な敗北をした【第二次長州征討】の後始末です。
と、ここで考えたいのは、先の福沢諭吉の仮定ですね。
果たしてこのとき、勝ち目はあったのか?
なかったとは言い切れない要素はあります。
・フランス支援が見込めたこと
・幕臣随一の切れ者である小栗忠順が「断固として長州藩を叩き潰すべきだ」と主張していたこと
まったくあり得ない“if”ではない。
その一方、家茂の死をもって、実質的に上様を失ったと嘆いていた幕臣が多かったことも確かです。
「せめて家茂が生きていれば……」という声は確かにありました。
源頼朝以来、忠義が芽生えていった武士たち。それが慶喜の頃には偽りに塗れてしまっていたのは、実に皮肉なことに思えます。これも時代の流れでしょうか。
そして事態はさらに悪化してゆきます。
討幕を目的とするというより、政権から弾き出されていた薩摩が手を組む相手を模索していると、慶応2年末(1867年)、孝明天皇が崩御したのです。
大政奉還という大ばくち
慶応3年(1867年)ともなれば、もはや幕府は風前の灯。
だからこそ不可解なのが土佐藩というピースです。
土佐藩でも内部抗争はありました。
しかし、武市半平太率いる【土佐勤王党】の崩壊後は、実質的権力者といえる山内容堂の主導で動いています。
山内容堂は聡明で、彼の懐刀であった吉田東洋の薫陶を受け、先進的な思想を持っていました。武市半平太一派を壊滅させたあとは、その路線に立ち戻っています。
そもそも【大政奉還】は土佐藩主導のアイデア。
しかし、この土佐藩の政権構想がつかみにくいのです。
明治維新が、彼らの想定していた政権の在り方でないことはわかる。しかし、目指した道が何だったのか?というと掴みにくい。
慶応3年(1867年)10月12日、幕府は二条城二の丸に老中たちを呼び出し、【大政奉還】を宣言しました。
教科書などでもお馴染みの絵画もあり、
いかにも理路整然と進められたように思われる幕末一のビッグイベントですが、実際は大混乱を招いています。
慶喜一世一代の大ばくちで、またもや彼の欠点が出てしまう局面を迎えるのです。
慶喜は確かに有能だけれども、あまりにも空気が読めず「ほう・れん・そう」を軽視する傾向もあった。
まず【一会桑】を構成していた会津藩と桑名藩ですら慶喜の考えを理解していない。
彼らが理解できないことを、どうして他の者が理解できようか。
【大政奉還】は、発案した土佐藩、慶喜とその周辺くらいしかわかっていなかったのではないかとすら思えます。
当時の人も思いました――慶喜は一体何を狙っていたのか?
この件に関しては、慶喜本人もアピールしてないことから未だに謎が多いものとされています。
ただ、例外的に深い満足感を抱いていた人物もいます。
イギリスのパークスです。
慶喜と面会したパークスは、知性あふれる姿にすっかり魅了されていました。
思えば彼の祖国であるイギリスは、二度の革命を経験しています。最初の【清教徒革命】は国王を斬首したものの、二度目の【名誉革命】ではそうはならない。
イギリスは【フランス革命】を野蛮で残酷だと非難してきました。
そんなイギリス人からすれば、潔く政権を返上した慶喜は素晴らしい! そう拍手でもしたくなったのかもしれません。
しかし、パークスは日本独自の権力構造をどこまで理解していたか。
日本では上皇と大御所という特異的な制度があります。その座を退いた権力者が依然として権力を保ち、ときには現在の在位者より影響力を与えることがある。
慶喜が【大政奉還】で本当にアッサリと権力を返上するつもりだったのか?
それは断言できませんが、確かなことはあります。
倒幕側は「慶喜が諦める」とは思わなかった。権力を投げられたところで、朝廷には国事を行うノウハウがなく、困惑するしかない。
慶喜は依然として800万石の大大名でありカリスマもあった。
そのため事態は悪化してゆきます。
先程パークスに触れましたが、実はイギリスには「日本で内戦が勃発して欲しい」という思惑がありました。
2013年大河ドラマ『八重の桜』初回冒頭は、アメリカ【南北戦争】の光景が入りました。
ただの受け狙いではなく、あれには意味があります。戦争で余った武器を売り捌けば、一儲けできる。そう考えたイギリス商人たちが、日本を市場とすることを見越していたのです。
実のところ、イギリスは日本を大切にしたいという気持ちなんて毛頭ありません。
なんせヴィクトリア女王は【生麦事件】の報告を受け、戦争しろと怒りを燃やしていたほど。イギリスが考えた江戸総攻撃計画も存在します。
清の二の舞にならなかった幕末明治の日本については、華々しい伝説が語られています。
司馬遼太郎『世に棲む日々』では、敗北したにもかかわらず、高杉晋作がイギリス人らを圧倒した場面が印象的に描かれます。
しかしこれはあくまで創作。実際にイギリス人が見た高杉は、すっかりおとなしくなっていたと記録されています。
こういう明治以来の“神話”はなぜかしつこく残り、ことあるごとに語られます。
現実は、資本主義社会へ向かいつつあるイギリスその他列強の思惑次第でした。
清は戦争してでも侵攻し、領土にするだけの旨みがある。領土は広く、絹はじめ魅力的な物産がある。なんなら清国人を労働者にしてもよい。
一方、日本は魅力が一段劣る。無理に侵攻するよりも、傀儡国家を置いて、極東の牽制をさせたらよいのではないか? うまい具合に内戦に持ち込めば武器を売り捌くことができるし、従順になるだろう。
そういう今流行の「地政学」を明治維新に応用すれば見えてくることもあるのでしょう。
いろいろな思惑があり、結果的に事態は悪い方向へ進んでゆきます。
それは散々語られてきました。
断固として武力倒幕を果たしたい西郷隆盛らの欲求は流血を伴いながら通り、慶応4年(1868年)が徳川幕府最後の正月となりました。
こうして、慶喜は一度たりとも将軍としては江戸城に入らなかったまま、その治世を終えたのです。
NHKドラマ10『大奥』では、徳川家定が慶喜のことをこう評していました。
「慶喜には心が無いのだ 国の民や家臣を思う心が無い者はどんなに聡くても将軍にはふさわしい器の者ではない!」
勝海舟は、将軍となった慶喜にこう語ったとか。
「御先代はお若かったが、とてもよいお方で、みな望みを託していたんですよ。それがああなって……私の奉公というのは、先代あってのことでして。あなたに奉公するとは思っておりません」
勝海舟にとって、最後の徳川将軍は家茂でした。
後に福沢諭吉からさんざん批判された勝海舟があっけらかんとしていたのも、どこか慶喜に冷たい気持ちがあったからかもしれません。
これは勝一人のことでもなく、福地桜痴ですら、家茂こそ実質的に最後の将軍ではないかと振り返っているほど。
幕臣たちが納得するだけの、将軍としての心が無い――それが徳川幕府の悲劇であったのかもしれません。
慶喜の独断専行ぶりは、松平容保が悲憤の思いで詠んだ漢詩からもわかります。
古より英雄数奇多し
何すれぞ大樹 連枝をなげうつ
断腸す 三顧身を許すの日
涙を揮う 南柯夢に入るとき
万死 報恩の未だ遂げず
半途にして墜業 恨みなんぞ果てん
暗に知る 気運の推移し去るを
目黒橋頭 子規啼く
古来より英雄は数奇な運命を辿ることが多い
何故、大樹を連枝見捨てるのか(大きな樹の枝、将軍と親藩のこと)
断腸の思いだ、三顧の礼にほだされて許してしまったことが(何度も断った京都守護職を受け入れたこと)
涙がこぼれてしまう、儚い我が人生を思えば(南柯夢、唐代伝奇小説「南柯太守伝」に基づく)
恩義に応じられなかったことは万死に値する(孝明天皇の信頼に対する恩)
志半ばで失墜してしまったことを、恨んでも恨みきれない
機運が去ったことすら、あとで知らされたのだ(大政奉還を会津藩に知らせずにしたこと、討薩を演説しながら大坂城から単独で慶喜が逃げた事等、通達が全くない状態か)
目黒の橋頭では、ホトトギスが血を吐き鳴く声が響く
【大政奉還】直前、会津藩は京都から会津へ戻ることを何度も強く願い出ていました。
それを引き留めたのが慶喜です。
慶喜はずっと手勢を持たずにいたため、身を守るための駒を常に必要としていました。
そのボディガード役を果たすよう強要されたために、彼らは戻れなかったのです。
【鳥羽・伏見の戦い】で大敗したあと、大坂城から慶喜はこっそりと逃げ出します。
その前に、慶喜は朗々たる声音で配下の武士たちに「共に戦おう!」という【討薩の表】を命じていました。
こうして下された慶喜の命令は、【箱館戦争】終結まで徳川武士たちを縛り付けます。
そこまでされて慶喜に対し「怒るな、恨みを捨てろ」というのは、あまりに酷ではありませんか?
何がなにやら意味がわからない、ただ、見捨てられたことだけはわかる――そんな悲痛の思いを、幕府に従う者たちは噛み締めたのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon)
久住真也『幕末の将軍』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
他