冷泉天皇

こちらは父親の村上天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

なぜ冷泉天皇は『光る君へ』の時代を生きたのに全く登場しないのか 原因は奇行?

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安和の変

陰謀に関わったとされる人たちは強引に罪人とされ流罪となりました。

この一連の事件を【安和の変】といいます。

よほど強引に進められたらしく、ほとんど詳細がわかっていません。

後世に書かれた平家物語の異本『源平盛衰記』では「源高明が為平親王を東国に連れていき、乱を起こして新しい帝にしようとした」とされていますが、そもそも物語なので史料としての信憑性は薄いですしね。

【安和の変】の詳細については以下の関連記事をご覧ください。

安和の変
『光る君へ』道長の妻となる源明子が兼家を呪う理由は【安和の変】にあり

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なんだかモヤっとしますが、何はともあれ藤原氏にとって有利な結末となり、そしてこの年のうちに冷泉天皇円融天皇に譲位して「冷泉院」と呼ばれるようになります。

退位後は、道長や三条天皇らの政争に巻き込まれることなく、気楽に暮らしていたようで、61歳まで長生きしました。

記録上の死因は赤痢らしいので、感染しなければもっと長命だったかもしれません。

もしかすると、宮中の政争がイヤで早く譲位したかっただけなんですかね。

最初からゴネて皇位継承を拒否するよりは、一旦即位したほうがスムーズに事が進みますし、この時代はたった数年で譲位するのも珍しいことではないですから。

 


源氏物語の冷泉帝は?

不幸があるとすれば、冷泉天皇がストレスから解放されたおかげで(?)長生きしたのに対し、自分の皇子・皇女や弟・円融天皇、甥の一条天皇など、下の世代の皇族にほとんど先立たれてしまったことでしょうか。

一条天皇/wikipediaより引用

遠い親戚ならともかく、自分の子供や弟のようなごく近い親族ですし……。

余談ですが「冷泉天皇(冷泉帝)」というと『源氏物語』を連想する方も多いかもしれません。

源氏物語の冷泉帝は、光源氏と継母にあたる藤壺の宮の密通によって生まれた子供ですが、表向き光源氏の末弟として育ち、即位しました。

藤壺の宮が亡くなってから自身の出生を知り、世の中への影響を考え、それについては口をつぐんで一生を過ごしています。

もし史実の冷泉天皇が身分や政局のために、本音を書き残すこともできなかったとしたら悲しすぎます。

一体どうだったのでしょう。

紫式部が何を思って、当時でさえ奇行が数多く伝わっていた天皇の名前を主人公の隠し子につけたのか、気になるところです。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
冷泉天皇/wikipedia

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