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【円融天皇】
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冷泉天皇を譲位させ 幼帝として即位
安和の変で源高明を排除した藤原氏。
それから半年もたたぬうちに冷泉天皇を譲位させました。
冷泉天皇は奇行が目立つとの逸話が残されているものの、譲位の正統性を高めるため、そうした評価を後付された可能性は否定できないでしょう。
なぜ冷泉天皇は『光る君へ』の時代を生きたのに全く登場しないのか 原因は奇行?
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即位したばかりの円融天皇は数えで11歳という幼帝です。
大伯父である藤原実頼が太政大臣として政務を取り仕切ることとなりました。
実頼は、藤原師輔の兄であり、伊尹や兼家、兼通にとって伯父にあたります。
そして天禄元年(970年)に実頼が没すると、今度は藤原伊尹(兼家の長兄)が摂政を続投。
天禄3年(972年)正月、円融天皇は元服しました。
となれば、親政が始まるようで、そうはなりません。
同年に伊尹が亡くなり、弟の兼通と兼家の間で再び激しい権力争いが始まるのです。
兼通と兼家の兄弟争いに困り果てる
兼通と兼家は、関白の座をめぐっての争いでした。
もともと伊尹・兼通・兼家の三兄弟は、長兄と三弟が親しく、間の兼通は除け者にされるようにして政治は進められていた。
それが伊尹の死により、兼通が弟へ逆襲をし始めたような構図となるのです。
元服したばかりの円融天皇ですから、断固たる態度を取れるわけもない。そもそもが冷泉天皇の皇子が成人するまでの中継ぎ扱いですから基盤も弱い。
果たして関白になるのは兼通か、兼家か?
母である安子は、兄弟の順に従って、つまり兼通→兼家の順番で継がせるように言い残していました。これを根拠に兼通が関白に任ぜられます。
この藤原氏兄弟は、権力基盤のため自らの娘を入内させます。
兼通は媓子を入内させ、中宮とします。
これにより円融天皇はますます政治闘争の道具とされてゆく。
藤原氏の方向転換により、冷泉天皇の皇子に継がせるのではなく、円融天皇と藤原氏の娘の間に生まれた皇子に継がせる皇統が既定路線となったのです。
貞元2年(977年)、にわかに事態は動き始めます。
この年、兼通が病で倒れると、兼家は逆転のチャンスを狙って、いそいそご参内する。
弟・兼家の行列を自身への見舞いだと思っていた兼通は、素通りされて激怒。
病の身を押して病床から起き出し、天皇のもとへ向かいます。
そこで兼通は、兼家憎しとばかりに、一族の長老格である藤原頼忠を次の関白に決めるのです。
頼忠の娘・遵子は円融天皇に入内していました。
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