道長にとって穢れとは

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』の藤原道長は“穢れ”の取扱いを間違えている?それとも創作上の狙い?

第1回放送で、いきなり主人公の母親が殺される――そんな衝撃的な展開で始まった大河ドラマ『光る君へ』。

藤原兼家の二男・藤原道兼が、まひろの母・ちやはを刺殺することで物語にうねりが出てきましたが、このシーンに違和感を覚えた視聴者が少なからずいたようで、ある話題が盛り上がりました。

「このドラマはいったい【穢れ】をどう考えているんだ?」

上級貴族ともなれば、死や遺体などに対する距離の取り方は過敏と言えるほど。

現代人から見ればワケのわからない風習ですが、実際にそうだった記録が残っていて、そう考えてしまう以上はどうしようもないものでもありました。

ただし、だからといって当時の誰もが【穢れ】に対して生真面目に取り組んでいたこともなく……かなり柔軟に対応する者も。

ならばドラマでの【穢れ】描写はOKと言えるのか。

いったい当時はどれだけ気をつけねばならなかったのか。

【穢れ】について見てみましょう。

 

劇中では穢れを無視しているのか?

『光る君へ』はフィクションである以上、当時ありえない描写も出てきます。

例えば、女性が顔を見せていること。

当時の貴族女性はガードが硬く、御簾、几帳、扇、長い髪の毛などで顔を隠し、

「見られたらアウトだ」

という慣習がありました。

しかし、テレビドラマでそんなことをやっていては、視聴者がストーリーを把握できない可能性だってある。

ゆえに、ある程度は隠しながらも、顔は判別できるようになっています。

注目は【穢れ】でしょう。

前述した通り、藤原道兼は第一回放送から、まひろの母・ちやはを刺殺していました。

当時の貴族は、意外かもしれませんが、殺人およびその未遂について、被害加害ともども巻き込まれている形跡は往々にしてあります。

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とはいえ自らが手を下すことはなく、従者やお抱え武士にやらせることがマナー。

道兼の場合、相手が平民ではない、下級とはいえ貴族を殺している。

しかも自ら刺した。

この2点が非常にまずい。劇中では全てを察知した父の藤原兼家がもみ消したと後に説明されました。

次に、その弟である藤原道長も【穢れ】に接触しています。

彼はお忍びで平安京を気ままにうろつき、散楽の出し物を熱心に見ていました。

しかしこの散楽一座には義賊という裏の顔があり、道長のいた東三条の屋敷に忍び込んだところで逮捕され、最終的に検非違使によって鳥辺野で殺害されました。

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このとき道長はまひろと共に直秀はじめ一座の遺骸を埋葬しています。

主人公二人が直で死体に接触しているのです。

主要人物が死体に触れてしまっている『光る君へ』は果たしてアリなのかどうか?

 

最愛の相手すら死に立ち会えない 平安貴族の悲しみ

源氏物語』の漫画版として、不朽の名作と言える『あさきゆめみし(大和和紀作)』。

その新装版5巻の表紙は、光源氏が最愛の妻である紫の上を抱き抱えています。

『あさきゆめみし』新装版5巻/amazonより引用

死を前にしたかのように力ない紫の上。

苦悩を抱えたような光源氏。

美しい絵です。

私はこれを見て、死にゆく紫の上か、あるいは亡くなったばかりの亡骸を抱きしめているようだと思いました。

しかし、実際に『源氏物語』を読むとそうではありません。

死にゆく紫の上のそばにいて手を執ったのは、義理の娘である明石中宮であり、光源氏は祈祷に立ち会っています。

これをそのまま映像化したとしたら、現代人ならば困惑しかねない状況でしょう。

あれだけ愛しておいて一体どういうこと?

そこは光源氏が手を執るべきでは?

率直に感じるのは、そんな印象ではないでしょうか。

物語ではなく、日記の例から見てみましょう。

藤原行成の『権記』です。

行成は、生まれて一歳になるかならぬかの男児を失った時のことを、日記に記しています。

赤ん坊とはいえ、とても顔立ちが整っていた我が子。それが熱病に罹ってしまいました。

少しおさまったようで、意識を失ってしまい、赤子の母が抱いているのですが、この時点で、行成は東の庭に降りています。

そして母が泣き出す声を聞き、我が子の死を知ったのです。

行成は自宅を出て、知人の家に向かい、そこに泊まりました。

現代人からすれば信じ難い話でしょう。我が子が死にかけているとなると、わざわざ庭に出て、死が確定すると他人の家に移る。

行成はどこまで冷淡なやつなんだ――とは、なりません。

その様子は漢文で、非常に抑制的に記されていますが、我が子の顔立ちを褒め、母の愛情が強いということが書かれている。

彼も、平静ではなく、辛かったことでしょう。抱きしめたい気持ちだったあったに違いありません。

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しかし、なんとしても【穢れ】を避けねばならない事情がありました。

当時の貴族は、死の【穢れ】に接すると、内裏へ出仕できなくなります。そのため、行成は我が子の死を避けるしかなかったのです。

つまり平安貴族が『源氏物語』を読んだときに、もしも光源氏が紫の上の手を執っていたら「そんな描写はおかしい」となりかねなかった。

いったい【穢れ】とは何なのか?

明確な規定でもあるのか……と思ったら、実際にあったのです。

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