第1回放送で、いきなり主人公の母親が殺される――そんな衝撃的な展開で始まった大河ドラマ『光る君へ』。
藤原兼家の二男・藤原道兼が、まひろの母・ちやはを刺殺することで物語にうねりが出てきましたが、このシーンに違和感を覚えた視聴者が少なからずいたようで、ある話題が盛り上がりました。
「このドラマはいったい【穢れ】をどう考えているんだ?」
上級貴族ともなれば、死や遺体などに対する距離の取り方は過敏と言えるほど。
現代人から見ればワケのわからない風習ですが、実際にそうだった記録が残っていて、そう考えてしまう以上はどうしようもないものでもありました。
ただし、だからといって当時の誰もが【穢れ】に対して生真面目に取り組んでいたこともなく……かなり柔軟に対応する者も。
ならばドラマでの【穢れ】描写はOKと言えるのか。
いったい当時はどれだけ気をつけねばならなかったのか。
【穢れ】について見てみましょう。
劇中では穢れを無視しているのか?
『光る君へ』はフィクションである以上、当時ありえない描写も出てきます。
例えば、女性が顔を見せていること。
当時の貴族女性はガードが硬く、御簾、几帳、扇、長い髪の毛などで顔を隠し、
「見られたらアウトだ」
という慣習がありました。
しかし、テレビドラマでそんなことをやっていては、視聴者がストーリーを把握できない可能性だってある。
ゆえに、ある程度は隠しながらも、顔は判別できるようになっています。
注目は【穢れ】でしょう。
前述した通り、藤原道兼は第一回放送から、まひろの母・ちやはを刺殺していました。
当時の貴族は、意外かもしれませんが、殺人およびその未遂について、被害加害ともども巻き込まれている形跡は往々にしてあります。
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とはいえ自らが手を下すことはなく、従者やお抱え武士にやらせることがマナー。
道兼の場合、相手が平民ではない、下級とはいえ貴族を殺している。
しかも自ら刺した。
この2点が非常にまずい。劇中では全てを察知した父の藤原兼家がもみ消したと後に説明されました。
次に、その弟である藤原道長も【穢れ】に接触しています。
彼はお忍びで平安京を気ままにうろつき、散楽の出し物を熱心に見ていました。
しかしこの散楽一座には義賊という裏の顔があり、道長のいた東三条の屋敷に忍び込んだところで逮捕され、最終的に検非違使によって鳥辺野で殺害されました。
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このとき道長はまひろと共に直秀はじめ一座の遺骸を埋葬しています。
主人公二人が直で死体に接触しているのです。
主要人物が死体に触れてしまっている『光る君へ』は果たしてアリなのかどうか?
最愛の相手すら死に立ち会えない 平安貴族の悲しみ
『源氏物語』の漫画版として、不朽の名作と言える『あさきゆめみし(大和和紀作)』。
その新装版5巻の表紙は、光源氏が最愛の妻である紫の上を抱き抱えています。

『あさきゆめみし』新装版5巻/amazonより引用
死を前にしたかのように力ない紫の上。
苦悩を抱えたような光源氏。
美しい絵です。
私はこれを見て、死にゆく紫の上か、あるいは亡くなったばかりの亡骸を抱きしめているようだと思いました。
しかし、実際に『源氏物語』を読むとそうではありません。
死にゆく紫の上のそばにいて手を執ったのは、義理の娘である明石中宮であり、光源氏は祈祷に立ち会っています。
これをそのまま映像化したとしたら、現代人ならば困惑しかねない状況でしょう。
あれだけ愛しておいて一体どういうこと?
そこは光源氏が手を執るべきでは?
率直に感じるのは、そんな印象ではないでしょうか。
物語ではなく、日記の例から見てみましょう。
藤原行成の『権記』です。
行成は、生まれて一歳になるかならぬかの男児を失った時のことを、日記に記しています。
赤ん坊とはいえ、とても顔立ちが整っていた我が子。それが熱病に罹ってしまいました。
少しおさまったようで、意識を失ってしまい、赤子の母が抱いているのですが、この時点で、行成は東の庭に降りています。
そして母が泣き出す声を聞き、我が子の死を知ったのです。
行成は自宅を出て、知人の家に向かい、そこに泊まりました。
現代人からすれば信じ難い話でしょう。我が子が死にかけているとなると、わざわざ庭に出て、死が確定すると他人の家に移る。
行成はどこまで冷淡なやつなんだ――とは、なりません。
その様子は漢文で、非常に抑制的に記されていますが、我が子の顔立ちを褒め、母の愛情が強いということが書かれている。
彼も、平静ではなく、辛かったことでしょう。抱きしめたい気持ちだったあったに違いありません。
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しかし、なんとしても【穢れ】を避けねばならない事情がありました。
当時の貴族は、死の【穢れ】に接すると、内裏へ出仕できなくなります。そのため、行成は我が子の死を避けるしかなかったのです。
つまり平安貴族が『源氏物語』を読んだときに、もしも光源氏が紫の上の手を執っていたら「そんな描写はおかしい」となりかねなかった。
いったい【穢れ】とは何なのか?
明確な規定でもあるのか……と思ったら、実際にあったのです。
穢れに触れると出仕できない
10世紀に成立した『延喜式』では【穢れ】のペナルティをこう記しています。
人の死:30日
人の出産:7日
六畜(牛・馬・羊・犬・鶏・豚)の死:6日
六畜の出産:3日
それ以外にも、穢れとされるものはあります。
弔葬・問病
月事(月経)
殺人
改葬
傷胎(流産)
失火
喫肉(肉を食べる)
食五辛(ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガを食べる)
一条天皇は猫が子を産むと、産養(うぶやしない)を行いました。
出産の穢れではないのか?と一瞬思うところですが、猫は六畜に含まれないため、そうならなかったのでしょう。
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ともかく、相手が最愛の人であろうと、死によって穢れたら一ヶ月ほど出仕できなくなってしまう。そのため当時の公卿は死を避けたのだとわかります。
『光る君へ』の第12回では、藤原為時が妾(しょう)である“なつめ”の最期を看取る場面が出てきます。
為時はなぜそうしたのか?
もちろん愛はあったことでしょう。それだけではなく、一条天皇の退位により無官となっていたことも関係したと考えられなくもありません。
もう出仕の機会がないのであれば、そこまで【穢れ】に気を使わなくともよい状態でした。
人体の状態により穢れも変わる
前述の通り、人の死による【穢れ】は、30日の出仕停止となります。
これには「五体不具穢」というルールも存在しました。
要するに、パーツによって忌みの期間が変わるという解釈です。
当時は犬や鴉が死体をつつき、欠損した一部だけが落ちているようなことが珍しくありません。
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よって死体の鮮度や欠損状況を判断し、その期間を決めていたというのですから、なんともおぞましい話ですね。
「犬が子どもの足を咥えてかじっているけど、これは何日分に相当する?」
「遺骨を見た場合は、どうカウントするの?」
そんな相談をされたらたまったものではないと思われますが、なまじ過去のデータに詳しいため、相談を持ちかけられる人物もいます。
藤原実資は質問と回答を『小右記』に記しております。
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ドラマでもそんな場面があれば、なかなか面白いことになりそうです。
対処は、時にいい加減で時に冷酷
【穢れ】は業務を停滞させかねないため、厳密に守られないこともしばしばあります。
第11回放送では、一条天皇の即位式に用いる高御座(たかみくら)に生首が置かれるという、ショッキングな出来事がありました。
道長はこの生首を何食わぬ顔で回収、鴨川に捨てさせることで即位を続行するのです。
この高御座の生首は、『大鏡』に掲載されているエピソードを元に描かれましたが、目的のためなら手段を選ばず、【穢れ】を無視する当時の貴族の姿が浮かび上がってきますね。
道長の強かさと同時に柔軟さが窺える一件とも言えます。
道長は状況に応じて、見なかったことにしたり、口止めしたり、死体を秘密のうちに始末して【穢れ】を避けていたことが、彼の日記『御堂関白記』からも掴めるのでした。
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一方、生真面目すぎて非情になる場合もあります。
自邸で働いている者が急病死しそうになると、家から追い出す――当時はこんなこともありえました。
腹を刺されて今にも死にそうな下人が、迷惑を避けるためフラフラと去っていくような記述も見られます。
【穢れ】を厳密に守りすぎるため他人の不幸に対して非情になるのであれば、むしろ道長のようにごまかしながら、柔軟に対応する方がマシでしょう。
例えば藤原実資は、生真面目な性格で知られています。
【穢れ】に対しても厳密に対処しており、それがゆき過ぎて現代人からすれば冷酷に思えることもあります。
火災が起きて童女が行方不明になった。井戸に幼児が転落死した。
そんなことが起きても、実資が重点を置いていることは、自らの周辺を【穢れ】からいかに遠ざけ、業務を滞りなく遂行するか?ということに尽きる。
彼は決して冷酷な人物ではないですが、仕事に生真面目すぎると冷たくなってしまう。
この点、どこかいい加減な道長の方が、人情味がありますね。
【穢れ】は職務遂行を妨げるため、平安京のインフラ整備にまで影を落としています。
天災や疫病で死者が大量に発生しても、貴族たちは【穢れ】をおそれて積極的に対処しない。
為政者の保身のため民が苦しむ――そんな政治不在の状況がしばしば発生するのでありました。
穢れは日本特有の慣習だった
いったい【穢れ】とは何なのか?
他国にはなく日本独自のものである――ということは当時の貴族もわかっていました。
むしろ他の国からすれば、わけのわからない慣習と思われても無理のないところではあります。
他の儒教文化圏では、儒教倫理による規定がなされています。
人の死による停滞があるとすれば「目上の者の服喪」が最大の要因となります。
『三国志』でおなじみの曹操は、自らの死を前にして、自分が死のうが部下は持ち場を離れるなとわざわざ書き残しています。
敵対する勢力があるのに持ち場を離れ、攻め込まれたくないという意識や、儒教への反発心もあるのでしょう。
服喪期間は、飲酒、肉を食べること、服薬、性行為等も禁止されています。
正史『三国志』の筆者である陳寿は、服喪期間に薬を調合服用したため、親不孝者と批判にさらされております。
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そしてこの【穢れ】も日本の歴史から消えたからこそ、現代人は違和感を覚え、理解しにくくなりました。
平安貴族はしばしば暴力沙汰を起こしていたものの、道長の時代はそこまで苛烈でもありません。
【摂関政治】の影響を薄めるために【院政】の時代へ。その打破のために武力が重宝されるようになると、政治的にも武士が台頭してくる。
平安時代も折り返し地点を過ぎるとなると、藤氏長者にもなった藤原頼長ですら矢を射られて死ぬような事態が発生します。
さらには平家が台頭し、源平合戦となると、もはや【穢れ】だのなんだの言ってられない。
それでも当時の貴族たちは価値観が抜けきっていないのか、戦乱で荒れる都にあっても、現実逃避するかのように見て見ぬふりをしたいような姿勢も感じられます。
鎌倉時代、武士の世となると、貴族と武士の文化が混ざってゆきます。
鎌倉の武士たちは、犬を追い弓矢で射る【犬追物】のような訓練をする一方、仏教の信仰に目覚め、五辛や肉食への禁忌は【穢れ】というより仏教信仰という形で残されてゆく。
時代がさらに降り江戸時代となると、徳川家康は林羅山を重用し、儒教倫理を統治に取り入れます。
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綱吉や吉宗といった歴代の将軍もそれを引き継ぎ、定着。
時代がくだると人権といった要素も加えられてゆきます。
現代の日本人が、葬儀のために仕事を休むのは【穢れ】のためではありません。
ただし、【穢れ】の意識が完全に消え去ったのか?というとそうでもなく、葬儀を後に塩を渡されることもその一例と言えるでしょう。
塩は【穢れ】を払うとされているものです。
大相撲の土俵に女性が上がれない問題をはじめとする「女人禁制」の根拠としても、【穢れ】が都合よく持ち出されます。
ここで根拠とされる月経を【穢れ】として扱うことは、社会通念としてもはや通じません。差別のために伝統をねじ曲げて持ち出すことは慎みたいものですね。
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【穢れ】という日本固有の慣習は、当時から曖昧で都合よく運用されてきました。
そのことを踏まえれば、ドラマ作劇上の都合として「厳密に扱わない」ことこそ伝統とも思えます。
藤原道長は前述の通り、日記を読めばかなり柔軟な対応をしているのです。
ルールがあるようでそこは柔軟である――そんな当時の価値観を実感できるといえるのかもしれません。
参考文献
倉本一宏『平安京の下級官人』(→amazon)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(→amazon)
『権記』(→amazon)
『御堂関白記』(→amazon)
他











