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【『光る君へ』感想あらすじレビュー第38回「まぶしき闇」】
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元服と呪詛
寛弘6年(1009年)、敦成親王をあやす敦康親王の姿を微笑みながら見守る中宮。
そこへ行成が、敦康親王の元服について相談にやってきました。
もう11歳だからおかしくないと中宮も認めるものの、元服をすれば藤壺を出ることになるからと敦康親王は嫌がります。
いつか元服しないといけない、元服姿が見たいと中宮は励ますように言いますが……ゆくゆくは帝となるのだと優しく語りかける彼女に、行成の顔は心なしか引き攣っています。
それでも嫌だと駄々をこねる敦康親王。
行成の反応にも興味深いものがあります。行成は道長も、帝も、どちらも好きなのです。だからこそ、板挟みになってストレスが溜まっています。
すると、道長のもとへ、百舌彦がただならぬものを届けに来ました。
敦成親王を呪詛した人形(ひとがた)です。
道長は行成を呼び出し、犯人探しをするよう指示を出します。
動機が敦成親王潰しであるからには、犯人が敦康親王側であることは明らか。
円能という僧侶が浮かび上がり、厳しい尋問により犯人はすぐにわかりました。
伊周の縁者です。劇中では名前がまだ出てきませんが、伊周にとっては母方の叔母にあたる高階光子だと伝えられています。
ききょうといい、その主たる伊周といい、中関白家は素直すぎるんですよね。策を仕掛けるにしては、あまりにも真っ直ぐに進みすぎではないでしょうか。
伊周はなぜ?
さて、この呪詛は陣定(じんのさだめ)の議題となります。
あの温厚な行成ですら、呪詛は死罪だと言い切る。その上で明法博士(みょうほうはかせ)に調べさせると提案します。
公任も、円能を還俗させ、罪を問うべきだと続きます。
兄の関与に悩ましい表情となる隆家も、明法博士に任せるという。実資以下、これに賛同。道綱のようにあまり深く考えていそうにない公卿もおりますが。
さて、伊周の処分はどうするのか。
静まり返る一同。明法博士の勘申では、呪詛の首謀者は「律」の掟では死罪となるのだとか。
このことを左大臣である道長から聞かされ、帝は動揺しています。
道長はそれより軽い官位剥奪相当だと進言すると、呪詛されたのに寛大だと帝は驚いています。
道長は自分はともかく、中宮と敦成親王を呪詛したことは許しがたい、厳しい罰を与えると明言。
ここにも道長の老獪さが現れていますね。
自分自身のことは二の次として、帝にとって大事な二人を持ち出しているのです。
それでも寛大な措置であるのは、恨みを買いたくないからだと言いつつ「伊周は参内停止相当だ」ときっぱり言い切りました。
帝が伊周は関わっていないと庇うものの、公卿から白い目で見られるのはかえってかわいそうだ、伊周のためだというのが道長の理屈です。
まひろと道長陣営は、ききょうと伊周陣営に対し、迂回しつつ目的を達成するような策があります。
若い頃とは違い、曲がりくねった道を通るほうがかえって早いと理解したような、そんな成熟を感じさせるんですね。
帝は中宮と閨を共にしながら、なぜ伊周は朕を悩ませるのかと打ち明けています。
中宮は「敦康様への想いは変わらない」と告げる。
「まことか?」と問いかける帝に、藤壺で寂しく過ごしていたころから、敦康様は闇を照らす光だったと中宮は素直に返します。その思いは敦成が生まれようと変わらないのだと。
帝は、敦康も、敦成も、そして彰子も愛おしいとのこと。素直に帝の御心とともにありたいと語る中宮。
中宮を愛おしそうに抱きしめる帝です。
人はなぜわかりあえぬのか?
まひろは月を見上げつつ、ききょうの言葉を思い出していました。
悪口や恨みつらみではなく、ききょうの定子への忠誠心と、そのために命を使うという覚悟の言葉です。
と、女房の先輩である宮の宣旨が「藤式部はいつも月を見上げている」と語りかけてきました。
何を思っているのかと問われ、その時々によると答えたまひろは、「今日は皆がどういう気持ちで宮仕えをしているのか?」と続けます。
すると宮の宣旨は、逆に「そなたは何のためにここにおるのか?」と問いかけてきました。
帝の御為か、中宮の御為か……。言葉を濁すまひろに「生きるためであろう」と語る宮の宣旨。
物語を書くだけならば里でも書ける。ここで書くのは暮らしのためでは?
まひろは認めます。
「子どももいるのだろう?」さらには「うまくいっておらぬのか?」と問われ、「なぜおわかりになるのか?」と驚くまひろ。
まひろのようぬ物語は書けないけれど、それなりに世の中のことを学んできたと説明する宮の宣旨です。
子を思う気持ちは届かぬようだとまひろが寂しそうに語ると、宮の宣旨はしみじみと、夫婦であっても、親子であっても、まことにわかりあえることはできないのではないかとフォローします。
「さみしいことだが」
そっと付け加える優しさもある。そして今日もよく働いたといい、早く休もうと言い合うのでした。
なんていい上司でしょう。
世の中の流れを見てきて知恵がある。驕り昂るわけでもなく謙虚で包み込むようだ。
見ているだけでなく、観察し、相手にあった助言ができる。これぞ理想の上司像でしょう。こういう人と出会い、長く付き合っていきたいとしみじみ思えてきます。
心を病んでゆく平安の人々
兄の様子を危惧したのか。隆家がズカズカと大股で屋敷に入ってゆきます。
「何をしておる!」
伊周は、呪詛をしておりました。
止めようとしても止めようがなく、鬼気迫る形相で呪詛を続ける伊周。
なんと人形を食いちぎっているではないですか!
呆れ果てる隆家。確かに、これはおそろしい……おぞましい……。
ちなみに呪詛の呪文は本物をそのまま唱えると危険なので、一部変えているそうです。それでも伊周役の三浦翔平さんは体調が悪化したそうで。
私も寺社仏閣に参るときは、大河が無事で進行できるよう願っています。何事も心がけが大事です。
それにしても、今年の大河はちょっと異次元の境地に入ってきている感はあります。
『源氏物語』を読むと、わかるようでわかりにくいことはあります。
どうにも暗く、人が病んでいる。あれだけ恵まれたと言われている光源氏ですら、何かあるとすぐに「出家したい」と遁世願望を募らせる。
男も女も精神的打撃を受けるとあっさりと亡くなってしまう。
権力闘争にせよ運とコネ頼みで、追い詰められたら呪詛くらいしかない。
そうなればどんな上級貴族だって病んでしまうでしょう。
『源氏物語』の呪詛といえば六条御息所ですが、彼女は勝手に生き霊になってしまうのであって、自発的に呪ってはいません。
流罪にせよ、しょうもない恋愛沙汰でそうなってしまう。
作者が意図的に生々しい政治闘争や人間の憎悪を薄めているのではないか?と、このドラマを見ていると理解できるようになっています。
そうやって作者が生々しさを薄めたところで、根底にある世界観は陰湿でストレスまみれの社会です。
あの世界の人がすぐに精神を病むのも、もっともなことだと思えてくる。
政治も問題だし、生活そのものがひどい。
平安時代の食事は上級になればなるほど栄養バランスが狂います。体を動かさないと健康寿命も短くなります。
男性は乗馬や弓術の機会があるからまだマシであるにせよ、女性貴族は重たい衣装を着てほとんど動けない。
そりゃ、ストレスですぐ亡くなりますよ。
わざと早死にするような環境を構築しているようなものです。
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