道長が金峯山詣をしてまで懐妊を望み、その直後に藤原彰子と一条天皇の子として生まれた敦成親王。
後一条天皇とは一体どんな人物だったのか?
最もインパクトのあるエピソードと言えば、母の彰子から生まれてくる場面であり、その様子が『紫式部日記』に克明に記されていることから、当然、大河ドラマ『光る君へ』でも大いに注目されています。
しかし、問題はその後です。
在位中に何かと出来事の多かった一条天皇や、道長との対立していた三条天皇と比べると、やはり印象の弱さは否めない。
何故にそうなってしまったのか……後一条天皇の生涯を振り返ってみましょう。
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父は一条天皇 母は彰子
後一条天皇は寛弘五年(1008年)9月11日、一条天皇の第二皇子として生まれました。
母は藤原道長の娘・藤原彰子。
彼女にとっては初めての子供でしたし、道長待望の男子でもありましたので、嬉しさやら安堵やら、とにかく色々と喜びがあったでしょう。
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諱は敦成(あつひら)と言います。
個人的な意見ですが、天皇の名前としては比較的知られている方ではないでしょうか。
というのも『紫式部日記』に誕生時の様子が詳しく記されているからです。
彰子はこのとき初産だったこともあって、かなりの難産で、僧侶たちの祈祷はもちろん、道長も念仏を唱えていたといいます。
あまりにお産が長引いたので、紫式部を含めた女房たちも不安になり、泣いてしまう人も多かったとか。
逆に、その様子を冷静に記憶し、記録していた紫式部の胆力に感嘆します。
なんせ女房たちの様子を記した部分では、こんな風に描かれているのです。
「後産が下りるまで皆気が抜けず、女房たちは涙で化粧が剥げてしまい、衣装もぺちゃんこになって散々になりおかしなものだった」
妙に生々しい!
さすが紫式部の筆力とでもいいましょうか。
なんでも、普段はキチッとしていた女房ですら例外ではなかったようで、読み手からすると良い意味でイメージが裏切られて、親近感すら湧いてきますよね。
彰子の出産や公任の「若紫」エピソードなど『紫式部日記』には何が書かれている?
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御帳台の中で「犬が子供を産む」
後一条天皇は誕生前、母・彰子のお腹にいた頃にも、こんな逸話もあります。
あるとき御帳台の中で「犬が子供を産む」という珍事がありました。
当時は何か変わったことがあった場合、占いや前例などに詳しい人を呼び、吉兆か凶兆かを訪ねるのがお決まりであり、このとき呼ばれたのが学者の大江匡衡(おおえのまさひら)でした。
源倫子や藤原彰子の家庭教師としてお馴染み、赤染衛門の夫ですね。
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犬の出産について問われた匡衡は、次のように答えています。
「犬という字の点を上につければ『天』、下につければ『太』となります。そしてそれぞれに『子』をつければ『天子』『太子』となりますので、皇子がお生まれになる吉兆でございます」
そしてその通りに一条天皇の第二皇子となる敦成親王こと後一条天皇が生まれました、というものです。
そもそも1/2の確率で当たるものですし、天皇の子に対して“凶兆”だなんて言えないだろ――そんなツッコミを入れたくなりますが、ともかく中宮生まれの皇子ですから前途は安泰。
父・一条天皇との対面も無事終わり、誕生の翌月には親王宣下も行われ、順調な人生のスタートでした。
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