2025年大河ドラマ『べらぼう』で高梨臨さんが演じる知保の方(蓮光院)。
史実では徳川家治の側室であり、その跡継ぎ候補となる徳川家基を産む女性ですが、今回の大河で初めて知るという方もいらっしゃるかもしれません。
あるいは2024年のフジテレビ版『大奥』では嫌われ役だったよね……とご記憶の方もいるでしょうか。
いずれにせよ知名度からして重要人物ではない――というのは、今年の大河『べらぼう』に限ってはそうと言い切れません。
なぜならこの知保の方、田沼意次の去就というギリギリの場面に関わり、その結果、蔦屋重三郎の出版活動にも影響を与えることになるのです。
では一体、知保の方と意次の間に何があったのか?振り返ってみましょう。
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画像はイメージです(千代田之大奥 元旦二度目之御飯 橋本(楊洲)周延画/wikipediaより引用)
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世継ぎのできぬ家治と五十宮倫子
徳川将軍中興の祖として名高い徳川吉宗。
その後を継いだ九代将軍の徳川家重は「小便公方」と陰口を叩かれることもありましたが、次の十代・徳川家治は幼い頃から聡明な人物として知られました。
なんせ祖父の吉宗にも期待をされていたほどの家治。
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徳川家治/wikipediaより引用
宝暦4年(1754年)には閑院宮直仁親王の第6王女である五十宮倫子と夫婦になります。
元文2年(1737年)生まれの家治と、元文3年(1738年)生まれの倫子という、まだ二十歳を迎える前の初々しい夫婦であり、仲睦まじい二人でした。
しかし、問題が発生します。
宝暦6年(1756年)に生まれた長女・千代姫に続き、宝暦11年(1760年)に生まれた第万寿姫も夭折してしまったのです。
若き将軍と御台の夫妻は「世継ぎを産む」という使命を果たせていない。
ならばどうするか?
徳川将軍は3代の徳川家光以来、京から御台所(正妻)を迎えることは通例となっていました。
ただし、彼女たちが世継ぎを授かることはありませんでした。
それでも問題視されないのは、側室との間に男児ができればの話です。
家治は、次から次へ女性に手を出すような漁色からは程遠く、文化を愛する知性的な人物。
しかし、子ができぬとならば、頭の痛いことでありました。
世継ぎを産む「腹」を上様に勧める
そんなあるとき、田沼意次が大奥から相談を持ちかけられます。
家治の世継ぎをもうけるため、知保を側室にしてはどうか?
家治と倫子――仲睦まじい夫婦の仲を知る意次としては、側室の話は言い出しにくい。されど伝えねばならない。
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田沼意次/wikipediaより引用
すると家治は、意次の申し出に納得しつつ、驚くべきことを語り出します。
「そちに側女はおるのか?」
「いや、そこまでは手が回りかねておりまして……」
家治は人に側女をすすめておいて、そちらが持たぬとはいかがなものかと言い、意次にも勧めるではないですか。
この逸話、真偽の程はさておき、家治と意次にはこのような奇妙なブラザーフッドがある君臣関係だと周囲に思われていたことがわかります。
かくして、知保の名が歴史に登場します。
なぜ、知保であったのか?
彼女は寛延2年(1749年)11月、大御所・徳川家重の御次として、お蔦(おつた)という名で大奥に入り、後に知保と名を改めています。
9代将軍・徳川家重の逝去後、家治の代でも大奥に仕えていた彼女が、お世継ぎを産む「腹」として指名されたのでしょう。
意次と大奥の結託により、知保の方は家治の側室にされたと伝わります。
ただ、この“大奥”というのが具体的には誰なのか。ある程度の実力者であり、松島か、高岳か、と諸説囁かれています。
松島は大奥筆頭として名高い存在です。
ただし意次は、松島の後に大奥筆頭となった高岳と深い結びつきがあったとされ、その可能性のほうが高いでしょうか。
高岳にせよ、松島にせよ、ともかく大奥実力者の意思があったことは確かなです。
世子を産み、老女上座の格式を賜る
こうした思惑の中、家治の側室となった知保の方。
宝暦12年(1762年)10月25日、待望のお世継ぎとなる竹千代(のちの徳川家基)を産みました。
しかし、ほどなくして母と子は引き離され、竹千代は倫子のもとで育てられます。
知保の方は世継ぎ出産を労うために「老女上座」とされたものの、あくまで腹を借りたような位置付けでした。
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徳川家基/wikipediaより引用
明和6年(1769年)、竹千代改め家基は、将軍世子として西の丸御殿へ移りました。
生母である知保の方もこれに従い、格式が正式に将軍側室に等しい「浜女中」(浜御殿の女中)とされます。
そして明和8年(1771年)8月20日、倫子が亡くなります。
享年34。
これにより知保の方は「御部屋様」、つまりは世子の母として扱われることになりました。
もしもこのまま家基が将軍となれば、知保の方は5代将軍・徳川綱吉の母である桂昌院のように安定した地位を得ることもできたでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。
安永8年(1779年)、徳川家基はわずか18という若さで急死してしまうのです。
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