絵・富永商太

信長公記 細川家 三好家

細川&三好三人衆が和睦にやってきた~超わかる信長公記83話

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近江の浅井氏や一向一揆勢に牽制した後、上京していた信長。
そこへ大坂から客がやってきました。

野田城・福島城の戦い】で石山本願寺側についていた細川昭元・岩成友通の二人です。

両者の目的は他でもありません。
織田家と和睦を結ぶためでした。

 

細川家って、一体なんなんだ?

細川昭元は、数多ある細川家の中で嫡流の京兆家けいちょうけ当主です。

室町~戦国期で頻繁に目にする細川家って、一体なんなんだ?
と思ったりしませんか。

というわけで少し詳しく説明させていただきますと……。

細川家は、もとを辿れば足利義康のひ孫・足利義季が承久の変後、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市細川)に住んだことから始まる名門。
主に畿内・中国・四国に勢力を広げ、各地の守護に就きました。

そのため

・和泉守護家
・阿波守護家
・備中守護家

など各地の守護から興った支流や、典厩家や野洲家などと呼ばれる家が実に多く広がっています。

その中で中心にいたのが京兆家。
室町幕府の名門として知られる【三管領】ですね。

【三管領】
・細川家
・斯波家
・畠山家

織田信長の尾張も、元々は斯波家が守護を担っていた国であり、その守護代・織田家の支流が信長の一族です。

※ただし、信長の時期に最も知られた細川家は京兆家ではなく、細川藤孝・細川忠興親子の和泉守護家となりますね(正確には和泉上守護家で、この系統が後の肥後細川家へと繋がっていきます)

細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友!かと思いきや本能寺後は……

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思ったよりも長くなってしまい申し訳ありません。
話を元に戻しましょう。

 

かつて義昭を襲った三好三人衆も挨拶に来ていた

細川家の中でも嫡流の当主に就いていた細川昭元。
当時、彼は三好三人衆方についていました。

三好三人衆は石山本願寺と通じていましたから、当然、【野田城・福島城の戦い】では織田信長の敵です。

そしてもう一人、和睦に訪れた岩成友通は、その三好三人衆の一人でした。

【三好三人衆】
・三好長逸
・三好宗渭
・岩成友通

永禄十一年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛した際、京都から追いやられ、その恨みで野田城・福島城の戦いだけでなく、それ以前には【本圀寺の変(1568年)】を起こし、将軍・足利義昭を襲ったりしておりました。

もう、この辺、ぐちゃぐちゃに入り組んでますよね。

本圀寺の変については、以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

本圀寺の変(六条合戦)で信長ヒヤヒヤ~超わかる信長公記56・57話

今 ...

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石山本願寺からも贈り物が……

細川家と三好だけではありません。
さらにはややこしいことに、石山本願寺の門跡・顕如(本願寺光佐)からも和睦の礼として、信長に高価な文物が贈呈されたと言います。

それがこちら。

・万里江山の絵
・白天目茶碗

「万里江山」は中国の絵画の様式「万里」と「江山」を合わせた絵だと思われます。
どちらも文字通りの意味で、「万里」は広大な風景を描くもの、「江山」は大河と険しい山を描くものです。

このとき贈られた絵の現物が伝わっていないようなので、なかなかイメージしにくいのですが……現代の我々が”中国の大自然”と聞いてイメージするような構図で問題ないかと。

白天目茶碗は、白い天目茶碗のことです。

天目茶碗とは、これまた中国の天目山 (浙江省)を発祥とする焼き物のひとつ。

『白天目茶碗』をご覧いただきたい方は文化遺産オンライン

日本では、美濃焼の中で白い釉薬うわぐすりを用いたものを指すこともあります(そういえば2019年10月現在の朝ドラ『スカーレット』は主人公が陶芸家で信楽焼の近江が舞台ですから、美濃焼の話も出てきたら面白いですね)。

信長公記』にはこれ以上の情報が書かれていないため、大まかなイメージとしてとらえていただければ幸いです。

 

そうかと思えば義昭は信玄に連絡を

こうしてエライ立場の人達がやってきたり、モノを贈られたり。
諸問題は解決したのかな――と思いたいところですが、そうではありません。

なぜなら、この裏で石山本願寺や松永久秀は、武田信玄と連絡をとっていたのです。

また、信長との間に亀裂が入っていた将軍・足利義昭も、信玄の上洛を促す手紙を書いていました。

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とはいえ、織田家と甲斐武田家の関係は、この時点では悪くありません。

信長は永禄八年(1565年)ごろに、姪の龍勝院という女性を信玄の子・武田勝頼に嫁がせていますし、二人の間には男児(武田信勝)が生まれています。

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さらに信長の嫡子・織田信忠と、信玄の娘・松姫の婚約も永禄十年(1567年)に成立しており、二重の縁となっていました。

武田家としては、龍勝院が元亀二年(1571年)に亡くなったこと、将軍や本願寺から接近されたことなど、複数の理由から「織田家との関係を再考する時期になっていた」と考えられます。

またしても強大な敵が増えそうな信長。
家臣たちも、西へ東へと立ち働くことになります。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

織田信長49年の生涯をスッキリ解説!生誕から本能寺の死まで【年表付】

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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。

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麒麟がくるキャスト出演者の最新一覧!武将伝や合戦イベントの解説付き

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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