1571年(元亀二年)10月7日、レパントの海戦でオスマン帝国がキリスト教国家の連合軍に敗れました。
日本では織田信長が【比叡山焼き討ち】をやった(とされている)年にあたります。
世界のどこでも宗教とのぶつかり合いが激しかった時期なんですね。
レパントの海戦 両軍ともに当初はヤル気なし
舞台となったのは、今のギリシャ沿岸の都市・ナフパクトス付近でした。
この地名をイタリア語やスペイン語にすると”レパント”になるらしいんですが、レは一体どこから来たんだ。
戦力的にはほぼ同等であり、
全盛期の大帝国
vs
イタリア諸都市+スペイン+マルタ騎士団その他カトリック系の軍
という豪華っぷりだったのですが、たった一日で決着がついたという珍しい戦いでもあります。
ちなみに士気の方はというと、病気や予定外の航海の延長で両軍ともgdgdでした。
連合軍側ではトップの人が自ら自軍の船を見回り、「いっちょやってやろうぜ!」(※イメージです)と呼びかけていたそうなので、こっちのほうが多少マシだったかもしれませんね。
そして連合軍に有利な風向きに変わった正午頃、戦いの火蓋は切って落とされました。
既に大砲などの兵器が誕生していますので、弓矢の射撃ではなく砲撃によって戦闘が始まります。
ただし、まだエンジン等はありませんから、素早く移動するには漕ぎ手及び指揮者の腕前が大きく影響していました。
互いに背後を取ろうと熾烈な争いが繰り広げられる中、連合軍は司令官バルバリーゴが右目を失う致命傷により戦線を離脱。
オスマン軍も右翼(思想ではない)方面の指揮官が戦死するなど、戦闘の激しさがうかがえます。
負けても懲りない! もう一度艦隊を作れ
また、珍しく旗艦(艦隊の一番エライ人が乗ってる船・陸戦で言えば本陣みたいなもの)同士の戦闘が起こりました。
これによりオスマン側のトップだった人が戦死してしまい、帝国軍は降参せざるを得なくなります。
そのときには既に他の船を指揮していた人物の多くも戦死しており、生き残った船も早々に撤退してしまいました。
オスマン帝国の被害は甚大なもので、285隻のうち逃亡したと思われる50隻以外は拿捕もしくは沈められるという散々な有様。
もちろん連合軍側にも被害は出ていて、むしろ負傷者の数は上回っていたようなのですが、オスマン軍の捕虜だけでも25,000人ほどいたそうです。凄まじい数ですね。
戦闘開始からわずか1時間半程度で、オスマン帝国は木っ端微塵に近い大敗北を喫してしまいます。
関が原もビックリの超速決着。
この規模で、これより早く終わった戦争ってあるんでしょうか。
が、ここで「まだだ、まだ終わらんよ!」と粘るのがオスマン帝国のスゴイところです。
ときのスルタン・セリム2世は「次の春までにもう一度艦隊を作れ!」と厳命し、本当にそれをやってのけました。
16世紀にもジェバンニがいたんですかね。
勝利したキリスト教側はほとんど得るモノなし!
ちなみに勝ったキリスト教側はというと、いつも通りgdgd状態に戻りました。なんでアンタらは毎回毎回あっという間に瓦解するんじゃい。
そもそも【レパントの海戦】は地中海の島・キプロス島をキリスト教側に取り戻そうぜ! ということで起きたものだったのです。
が、結局、奪還できなかった上に足並みが揃わなかったせいで政治的な駆け引きでもうまくいかず、「戦争に勝ったのに得たものがほとんどなかった」という何のうまみもないことになってしまいました。
百歩譲っても、オスマン艦隊にこき使われていたキリスト教徒を解放できたことくらいしか戦果がありません。残念にもほどがありますね。
そのため結局オスマン帝国の弱体化には至らず、”オスマンの脅威”はもうしばらくの間続きます。
とはいえスペインやイタリア諸都市と積極的にぶつかろうとはせず、講和でキプロス島やダルマチア(現クロアチア)をもらった後は北部アフリカや中東方面で領地を広げたからかもしれません。
この辺のバランス感覚というか諦めの良さというか、方針の転換にためらいがないおかげでオスマン帝国は長く存続できたのかもなぁ。
学者先生方の中には「いやいややっぱりレパントでの敗戦が凋落のきっかけでしょ」とする考えもあるようですが、その後350年続いています。
こだわり過ぎるとうまくいかない、という点は大いに学べそうです。
長月 七紀・記
【参考】
レパントの海戦/wikipedia
オスマン帝国/wikipedia