1469年(日本では応仁の乱真っ最中・文明元年)10月8日は、イタリアの画家フィリッポ・リッピが亡くなった日です。
何となくピンク色の可愛いポケモンを連想するような名前ですが、やってることがあまり可愛くありません。いや、ある意味可愛いか……?
その辺を交えて、彼の生涯を見ていきましょう。
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リッピは悪ガキ 絵でも描かせりゃ治まるか?
リッピは1406年、フィレンツェの肉屋の息子として生まれたといわれています。
幼い頃に両親と死に別れたらしく、修道院で育ったとのこと。
子供の頃は「勉強嫌い&腕白坊主」という、おおよそ芸術家には向かなさそうな性格でした。
が、何を思ったのか。
リッピの面倒を見ていた修道士の誰かが「絵でも描かせたら落ち着くんじゃね?」(※イメージです)と言い出します。
どうしてそんな発想になったんですかね。
当時は悪ガキに絵を描かせるのがトレンドだったんでしょうか。
ところがこれが大当たり。
リッピは同じフィレンツェ出身の画家の作品から学び取って、絵を上達させていきました。
齢50にして30歳下の修道女と突如駆け落ち
絵を描き始めてからは本当に落ち着いたらしく、悪ガキなエピソードは鳴りを潜めています。どういうことだってばよ。
落ち着きすぎて、中年になるまで特に逸話がありません。
12年ほどかけて、フィレンツェの北西にあるプラートという町の大聖堂の壁画を描いていることくらいでしょうか。
……と思いきや、いい歳にもほどがある50歳前後の頃、センセーショナルな事件を巻き起こします。
大仕事をやり遂げた場所であり、当時リッピ自身が司祭を務めていたプラートのサンタ・マルゲリータ修道院で、30歳近く年下の修道女ルクレツィア・ブーティと駆け落ちしているのです。もうどこからツッコんだらいいのかわかりません。
現代でいえば、部長クラスのお偉いさんが別の部署の女性と駆け落ちしたようなものでしょうか。無理があるか。
しかも、翌年には息子のフィリッピーノが生まれています。生々しく考えると、駆け落ちしたときには既に身籠っていた可能性がありますね。うわー……。
メディチ家に気に入られ事なきを得る
いくら腐敗しまくっているとはいえ、聖職者同士のこのスキャンダルは当然問題視されました。
リッピは修道院へ出禁。平たくいえばクビです。
しかし、ここで妙な方向から助けが入ります。
ときのメディチ家当主であるコジモ・デ・メディチが、「愛し合ってるならいいじゃない」(※イメージです)と助け舟を出してくれたのです。
元々メディチ家は銀行業で大儲けした家ですが、コジモはフィレンツェの税金のうち6割を出したと言われるほどの超・大富豪。
当然権力も絶大でしたので、こんなことにも顔と口が出せたというわけです。
また、コジモは芸術家の庇護にも積極的でしたので、リッピの画才を惜しんだという面もありました。もし教会から正式に罪人とされてしまうと、画家としての活動が難しくなるからでしょうね。
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おかげでリッピとルクレツィアは正式に還俗を許され、晴れてフツーの夫婦になることができています。
可愛い妻と息子に囲まれ、それこそ絵に描いたような幸せな家庭を築いたリッピは、ますます良い仕事をするようになりました。
(良い意味で)単純すぎる気もしますが、まあイタリア人ですし。
結婚してからは画風にも変化が
リッピは、この時期の画家にもれず宗教画を多々描いています。
結婚してからは、聖母マリアやサロメなどの表情が一風違ったものになりました。
サロメは新約聖書のエピソードに出てくる女性です。
母のヘロディアとヘロデという王様が結婚した後、とある宴で素晴らしい舞を披露して、義父に大いに気に入られました。
ヘロデが「なんでも褒美に好きなものをやるぞよ」というテンプレなセリフを言うと、サロメは母の言うとおりに「洗礼者ヨハネの首」と答えたといいます。
洗礼者ヨハネはイエス・キリストの親戚で、キリストに洗礼をした人のことです。
まんまですが、キリストの弟子にも同名の人物がいるので、こんな呼び名になっています。
そして洗礼者ヨハネは「ヘロディアはヘロデ王の兄の妻だったのだから、離婚したとはいえ兄の妻と再婚するのは王様としてどうよ」とツッコんだため、ヘロディアに恨まれ、この宴のときには牢に繋がれていました。
ヘロディアは娘に褒美が与えられそうになったので「これはいいチャンス! あのウザい聖人ヅラを始末してもらいましょう」と考え、こんなグロい褒美を申し出るように言ったのです。
つまり、サロメはカーチャンの言ったことをそのまま伝えただけ、しかも本人にとっては何の得もない話だったのですが、周りの人はそんな事情までわかりません。
見たまま「なんだあの女、キレイだけどこええええええ!」(超訳)と思われてしまい、サロメはキリスト教におけるとんでもない女性の代名詞みたいなことになったのです。
「狂女」なんて不名誉にも程がある形容詞がついていることもありますね。カワイソス(´・ω・`)
宗教画ではよくあることですが、サロメを描いた絵の場合、“作者がサロメをどのように受け取っていたか”という点が如実に現れています。ヨハネの首に向かって思いきりイヤそうな顔をしているものもあれば、無表情に近いもの、冷たく首を見下ろしているものなどさまざまです。
これは個人的な感想ですけれども、リッピの描いたサロメは無表情に見えると同時に、「女性が拗ねているときの顔」のようにも思えます。現実の女性がいかにもこういう顔をしそうというか、宗教画によくある非現実性が薄いというか。
一方、聖母子像のほうは慈愛に満ちつつも、幼いキリストよりもそれを抱いている天使の方に視線をやっているような気がします。
こっちもこっちでキリストの顔が赤ちゃんらしくないとか、キリストの腕で隠れてる後ろの子供の顔がコワイとか、いろいろありますが。
※全て個人の感覚です
「ヴィーナスの誕生」ボッティチェッリはリッピの弟子
良くも悪くもリアルな描写力は、弟子にも受け継がれます。
上記の通り、リッピはメディチ家に庇護されるほどの画家でしたので、たくさんの弟子がいました。
その一人が、後々「ヴィーナスの誕生」などを描くサンドロ・ボッティチェッリです。
開いたデカイ二枚貝の内側に女性が立っているアレです。
ボッティチェッリは18歳のときにリッピへ弟子入りしたとされています。
その頃のリッピは画家としてかなり有名になっていて、フィレンツェのお偉いさんのお屋敷や、私設礼拝堂の絵をよく依頼されていました。
ダイナミック結婚は無事ほとぼりが冷めていたようです。よかったよかった。
リッピの「肉体をありのままに描く」方針や一点透視図法、作品の構図などは、ボッティチェッリに多大な影響を与えました。
ボッティチェッリの描いた初期の聖母子像は、リッピの聖母子像ととても良く似た構図や表情をしています。
師弟間の変わったエピソードなどは特にないようなので、リッピはボッティチェッリにとって良いお師匠様だったのでしょうね。
ボッティチェッリが別の先生についていたら、彼の画風は全く違ったものになっていた……かもしれません。
色々とツッコミたいところはありますけれども、全部丸く収まってめでたしめでたし、としておきましょう。
長月 七紀・記
【参考】
『ボッティチェッリ NBS-J (タッシェン・ニューベーシック・アートシリーズ)』(→amazon link)
フィリッポ・リッピ/Wikipedia