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【応仁の乱】
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そのとき河内の畠山氏では
畠山氏では、宝徳二年(1450年)に畠山持国が庶子・畠山義就に跡を継がせて隠居。
これに対して神保氏などの有力家臣が「甥御の畠山政久様に継がせるべきです!」とゴネ始めました。
持国には正式な妻との間に子供がおらず、最初のうちは弟・畠山持富を後継者にしていたのです。
その持富の息子・政久が、神保氏などに担がれました。
【畠山氏の対立】
畠山義就(持国の庶子)
vs
畠山政久(持国の甥)
持国が弟の持富に家督を継がせれば何の問題もなかったんですね。
ところが突如心変わりをして、身元の不確かな息子・畠山義就を後継者に決め、ここで弟の持富はゴネずに引き下がるのです。
彼はその二年後に亡くなっているので、体調が優れなかったのかもしれません。
しかし、黙っていなかったのが持富の長男・政久です。
当初の予定通り父の持富が畠山氏の家督を継いでいれば、いずれは自分が当主になっていたわけで……周囲の神保氏らもその路線のほうが正しいと考え、義就の家督継承に反対したのです。
そして、ここにもまたまた有力大名が絡んできます。
もうコントみたいですよね。
畠山政久派は細川勝元の助力を得て、畠山持国&義就親子に対抗。
ほどなくして持国が亡くなった後、畠山氏の命運は勝元の気分次第という状況になり、当然ながら、政久のほうが有利になり、義就はいったん吉野へ逃亡。
さらには領国の河内へ移ってチャンスを待ちます。
次に斯波氏です。
もう、いい加減にしてくれ!という声が聞こえてきそうですが、逆に考えればこの辺りに【応仁の乱】の面白さがあるわけで、しばしお付き合いいただければ幸いです。
斯波氏は、斯波義健の死後に嗣子がなく、一族の斯波義敏を養子にして継がせておりました……のですが、有力家臣・甲斐常治と対立し、家臣団が両派に分かれて争い始めます。
その後、義敏は幕府の命に逆らったのがきっかけで追放。大内氏を頼って周防に逃げるのです。
今回は幕府も絡んできてるんですね。
斯波義敏の不在の隙に、幕府は渋川義俊の子・渋川義廉を斯波家に入れて跡を継がせ、ここに
斯波義敏
vs
斯波義廉
という新たな対立構図ができました。
義敏には細川勝元、義廉には山名持豊が味方についてます。
いったい細川、山名、畠山らは何を考えてんだか。
将軍義政に跡継ぎが生まれてしまった
あっちもこっちもお家騒動をやらかしていた寛正六年(1465年)、ついに歴史が動きます。
上述の通り、当初は弟・足利義視を九代将軍にすると言っていたのに、心変わりをした義政。
実子に継がせたいと言い出し義視は激怒します。
ムリもありません。義視は再三、将軍職を断っていたのに、兄にゴリ押しされて僧侶から還俗してまで将軍継承を引き受けたのです。
義視は細川勝元、義政とその妻・日野富子は山名持豊を頼ります。
この辺りからですね。
将軍であるはずの義政が急速にヤル気を失ったのは……。
しかも、天災が続いたために民衆が困窮。
遡ること40年ほど前には史上初の土一揆【正長の土一揆】も起きており、徳政令が求められるようになって大分経っているので、民衆サイドも力による解決をためらわなくなっておりました。
正長の土一揆で借金チャラとは一体? 農民・地侍・馬借の蜂起で徳政令ブームへ
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「借金、チャラにしいや~」と迫る民衆。
しかし、いつまでも徳政令が出ません。そこで待ちきれなかった彼らは【私徳政(勝手にチャラにする)】を盛んに行います。
こうした状況に対し幕府はすっかり諦め
「債務者が借銭の十分の一にあたる分一銭を幕府に納めれば債務を破棄される」
という【分一徳政(ぶいちとくせい)】を行いました。
でも、これって、幕府に金が集まることになるんですよね。
結果、土一揆を起こした面々は徳政を求めるのではなく、京都市内での略奪・放火をする暴徒へと変わっていってしまいました。
絵に描いたような社会不安。
リアル北斗の拳とはこの頃のことかもしれません。
それでも幕府は京都の治安を回復しようとせず、これまでに記述したような権力闘争(物理含む)に明け暮れ、民衆の信頼はガタ落ちでした。
まだ義政も頑張っていたが……
いったん、ここまでの関係をマトメておきましょう。
足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉
vs
足利義視・細川勝元・斯波義敏
こんな感じで、一応、将軍である義政もこの時点ではまだ完全には丸投げしていませんでした。
文正元年(1466年)に義政は、育ての親でもある政所執事・伊勢貞親の献言を容れ、斯波義廉を引っ込め、大内氏に身を寄せていた斯波義敏を当主にします。
しかし、「義視が謀叛を企てている」と義政に讒言したことがキッカケで、伊勢貞親は失脚。
連座して義敏も越前に逃れ、再び義廉が当主になりました。
仮にも三管領の一角である家がこんなにコロコロ当主を変えていたら、政局が不安定になるのも当たり前です。
それは当の本人たちもわかっていて、山名持豊・斯波義廉、そして細川勝元などが急いで兵を集めにかかります。
さらに山名持豊らは、足利義政に畠山義就を赦免するよう迫り、義就の軍が入京します。
だんだん収集がつかなくなってきましたね。
いよいよ開戦です。
畠山政長が屋敷に火を付け神社に
応仁元年(1467年)、持豊らは義政に
「管領を畠山政長殿から斯波義廉殿に変えてください(変えないとどうなるかわかってますね?)」
と迫りました。
義廉は先述の通り、持豊側の人です。
つまり、幕府の中枢において、勝元よりも持豊の勢力が強まったことになります。
政争に敗れた政長はこれを知ると、京にあった自分の屋敷に火を放って上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に立て籠り、義就に決戦を挑みました。
いよいよ応仁の乱スタート!
さすがにヤバイと思ったか。
足利義政は、細川勝元と山名持豊の二人に、この戦への介入を禁じましたが、既に命令を聞く二人ではありません。
持豊が義就を大々的にバックアップして勝利し、実質的に京都を占領。
むろん、細川勝元もここで引くようなタマではありません。
自分に与する守護大名たちに上洛と派兵を呼びかけ、最初に応じたのが赤松政秀でした。嘉吉の乱でいったんは滅亡同然になった家ですが、勝元が復興させていたのです。
政秀は勝元に与し、近所かつ旧領かつ持豊の領国である播磨を攻めて占領しました。
彼にとっては願ったり叶ったりの展開だったかもしれません。
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