しかし、人類五千年の歴史からすると、ごく最近のことで。
むしろ半分を過ぎるくらいまでは東洋、特に中国付近が最先進国だったりします。今回はその端境期のお話です。
1245年(日本では鎌倉時代の寛元三年)4月15日、プラノ・カルピニという修道士がローマ教皇の命を受けてモンゴル帝国へ旅立ちました。
日本へ元寇を送る、チョット前のことですね。
1274年文永の役
1281年弘安の役
もちろんただの旅行ではありません。
ヘタすりゃ死の【DEATH TRIP】でした。
戦術の差が大人と子供
当時世界で最も強大な軍事力を持っていたモンゴル帝国。
この時期ヨーロッパへも食指を伸ばしていました。
彼らがどのくらい強かったか?
というと、神聖ローマ帝国(ドイツなど)とポーランド王国・その他諸々の連合軍がものの見事にやられています。
ヨーロッパ連合軍の基本戦術が騎士の突撃だったのに対し、モンゴル軍は偽装撤退するわ、左右から射掛けるわ、煙幕で分断させるわ、まるで大人と子供のような戦術の差でした。
コレを見て「黙ってるとそろそろウチもやばくね?」と危惧を抱いたローマ教皇庁が、モンゴルと交渉するために行かせたのです。
カルピニは、まずチンギス・ハーンの孫であるバトゥに会い、その後、モンゴル帝国第三代皇帝・グユク汗に会うよう手配されます。
もしかして平和的に交渉できたのか?
と、一瞬思われるかも知れませんが、しかし……。
「そっちこそ頭下げるなら今のうちじゃね?」
教皇が持たせた手紙。
その内容がイケイケドンドンでした。
「ウチには神のご加護があるんだから、手出したらただじゃすまないのはそっちだからな! 今、引き下がれば、特別に洗礼を受けさせてあげるけど?」(超訳)
もちろん隆盛を誇るモンゴル帝国にとって、こんなもん屁の河童。
その返書もかなりなものでした。
「そっちこそ頭下げるなら今のうちじゃね?でないと何するかわかんないよ(笑)」(超訳)
13世紀とはいえこれが大人のヤリトリなんですからね……。
文明とか礼儀の進歩って大事ですね。
暇だった? たくさんの記録を残している
当然この態度は、使者であるカルピニ達にも現れており、待たされて散々な思いをしたようです。
しかし、歴史的にはそれが良かった一面もあります。
信仰心の成せる業か。
単に好奇心旺盛だったのか。
国防のためか。
モンゴルの都や軍について事細かに観察し、記録を残したのです。
それがローマ教皇庁へ提出された
『われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴル人の歴史』
です。
王様がキリスト教徒ではないこと、軍の組織や統率がしっかりしていることなど、西洋からするとまさに異端・異教徒にも関わらず栄華を誇っている国の存在をレポートに纏め上げました。
これを西洋諸国や教皇庁がどのように受け止めたかはわかりません。
カルピニ自身は「こういうことをきちんと理解しておけば、ウチらが負けることは多分ないでしょう、たぶん」(超訳)という結論を出しています。
「キリスト教徒でなければ人にあらず」
そんな態度をあからさまにする欧州の一員としては謙虚な態度ですかね。
この頃の世界では中国・モンゴルを始めとした東洋のほうが文明的に進んでいる面も多くあったからだと思われます。
ローマ教皇はじめて神ならぬ紙を見る?
東アジアでは中国を中心に、いわゆる”中国の四大発明”(羅針盤・火薬・紙・印刷)の全てがすっかり定着していました。
事実このときモンゴルから受け取った返書が「ローマ教皇が初めて目にした”紙”」だったといわれているのです。
ヨーロッパにも製紙工場はありました。
それに対し、モンゴルから来たもののほうが質が良かったのかもしれません。
ちなみに教皇からの手紙は羊皮紙(羊の皮の毛を抜いたりして紙代わりにしたもの)に書かれていたそうです。
一応「大事な文書に使うもの」ということにはなっていたので、この一点だけでヨーロッパが後進国であったということはいえませんけども。
きちんと保管されていれば1,000年以上持つらしいですし、今でも外交の場などで使われていますしね。
ヨーロッパでは製紙技術が遅れていたために、羊皮紙が正式なものであって紙は国交などに使うものではないとされたのかもしれません。
でも、見下していた東洋から非常に優れた質の紙が送られてきたのですから、それだけでも彼我の文明の差について悟ることはできた……かも。
ただし、ローマ教皇のところまでモンゴル帝国の手が伸びることはありませんでした。
東洋が覇者のままなら?
四大発明は、モンゴル帝国の西方遠征によって中東やヨーロッパに伝わっていったともされています。
征服された側からは”タタールのくびき”などあまり良いイメージのない単語で表現されることが多く、そうした意味では文化的な発展のきっかけになったと見ることもできるんですね。
ペストもこのときヨーロッパに持ち込まれたという説もあります。
先進国の座が東から西へ引っくり返ったのは、おそらく大航海時代が境目と思われます。
中国でもヨーロッパに先駆けてアフリカへ行った人がいたのですが、あまりに費用がかかること、中華思想や儒教の影響により、それ以降海外進出をしようとしませんでした。
ヨーロッパの国々は逆に、香辛料や金銀山を求めて積極的に外へ行くようになります。
時期的にも入れ替わったかのようなタイミングですし、やはりここが転換点だったでしょうね。
その後の世界史を考えると、どちらがいいとも悪いともいえませんが……こういう流れを見てみるのも歴史の醍醐味ではないでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
プラノ・カルピニ/wikipedia