テレビや映画などのフィクション作品で注目され、歴史人物の評価が変わることがあります。
かつては、暗愚でマトモな判断もできず、幕政を混乱させるだけのどうしようもない将軍――という描き方が主流でしたが2008年の大河ドラマ『篤姫』では、そう単純な描写ではありません。
堺雅人さんが、暗愚な将軍を装いつつ、可愛らしいと思えるような人物像を演じました。
そして2023年秋のNHKドラマ10『大奥』でも家定は何かと注目されました。
劇中では、父の家慶から性虐待を受け続けた悲運の女性であり、その父親によって「家定は醜く愚鈍である」と噂を流される設定なのです。
しかし、彼女には救いがありました。
三人目の正室として、薩摩藩から島津胤篤が大奥入りを果たし、二人で愛を育んでゆくのです。
むろん史実の徳川家定は男でありますが、実際のところ「愚鈍」と評価されてきた通りの人物だったのか?
それとも何処かで評価が歪められたのであれば、何をキッカケにそうされてしまったのか?
安政5年(1858年)7月6日はその命日。
これまでほとんど注目されることのなかった十三代将軍・徳川家定の生涯をあらためて振り返ってみましょう。
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子沢山の父・家慶、生き延びた唯一の男子
徳川家定は文政7年(1824年)、12代将軍・徳川家慶の4男として、江戸城で生まれました。
母は幕臣・跡部惣左衛門正寧(諸説あり)の娘・おみつ。
彼女は堅子あるいは本寿院という名でも知られ、例えば大河ドラマ『西郷どん』では泉ピン子さんが演じられてました。
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先代の家慶には、正室・楽宮喬子女王との間に、長男・竹千代がいましたが、わずか一年にも満たないうちに夭折。
喬子はこのあと数度懐妊するも、流産と夭折ばかりで、一向に子供が育ってくれません。
実に、家慶は14男13女もの子供に恵まれながら、成長した男子は家定と慶昌(一橋家第6代当主)のみであり、家定が将軍を継ぐこととなったのです。
しかも、身体は病弱で……。
そんな状況の中、父の家慶は、老中首座・水野忠邦による【天保の改革】と、その反発に対応するため疲れ果てておりました。
幕政への不満を募らせる民衆という「内憂」。
沿岸部に姿を見せはじめた捕鯨船。
【ナポレオン戦争】が集結し、東へ目を向け始めた列強という「外患」。
家慶が将軍になってから次から次へと降ってくる内憂外患に対し、心休まるときのない苦難の人生を送っていたのです。
そして嘉永6年(1853年)6月3日、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が姿を見せると、彼はもはや限界に達したのでしょう。
6月22日に倒れると、そのまま息を引き取ってしまいました。
死因は熱中症と伝えられ、享年61。
病弱な青年である徳川家定が、13代に就任することとなったのです。
家定にとっての救いは、新進気鋭の老中・阿部正弘が登用されたことでしょう。
家慶の時代に若くして抜擢された阿部は、優秀な政治家でした。
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将軍としての“務め”
将軍となった徳川家定には、政務以外にもなすべきことがありました。
お世継ぎを授かることです。
もしも彼の生まれた時代がもっと平穏であれば、そこまで切迫することもなかったかもしれません。
しかし、そうではない時代に彼は生きていました。
将軍世子であった時点で、家定には京都から正室が迎えられていました。
鷹司任子です。
彼女は嘉永元年(1848年)、疱瘡に罹り、享年26で没してしまい、その翌年、一条秀子が輿入れします。
秀子は背が低く、片足が不自由であるとささやかれました。
風刺画を得意とする歌川国芳の描いた『きたいな名医難病療治』という作品には、片足だけ高下駄を履いた女性が描かれています。
それが秀子だとされ、彼女の背の低さをからかう落首も江戸市中で流行りました。
ただ、それを笑った人々もあまり気分は良くなかったかもしれません。なぜならそのわずか半年に命を落としてしまうのです。
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いずれにせよ彼女の死はゴシップの種となり、家定の側室であるお志賀が毒殺したという噂がはびこりました。
江戸っ子たちは、もはや将軍様の権威なぞ気にしちゃいない時代になっていたのです。
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