こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【吉川元春】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
鳥取城に続き備中高松城でも追い込まれ
天正五年(1577年)10月、羽柴秀吉を大将とした中国攻略軍が編成され、打倒毛利を最終目標とした進軍が始まります。
途中で荒木村重の離反というアクシデントがありながら、秀吉は徐々に西へ侵攻。
やがて毛利の勢力圏にたどり着き、ついに激突します。
この時期の吉川元春は、尼子勝久の籠もる播磨上月城(兵庫県佐用郡上月町)を包囲していました。
尼子方が籠城できていたのも、背後に織田方の援護があったからです。
結果として元春は勝久を自害に追い込み、「我に七難八苦を与えたまえ」という誓いで有名な尼子氏の家臣・山中幸盛も始末し、同時に織田方への敵愾心も強まっていったことでしょう。
しかしその後、秀吉の慈悲なき戦術に追い込まれ始めます。
天正九年(1581年)【鳥取城の戦い】で容赦ない兵糧攻めが敢行され、城将の吉川経家が自害に追い込まれてしまったのです。
さらには天正十年(1582年)、水攻めを受けていた備中高松城を救援することができず、やはり城将の清水宗治が切腹に追い込まれました。
このとき実は京都で【本能寺の変】が勃発。
毛利方もその情報を掴めていれば、宗治をもう少し粘らせ、より有利な条件を引き出すことも考えられました。
しかし、毛利方がそれを知ったのは後のこと。
元春をはじめとした毛利方の面々は、さぞ歯噛みしたことでしょう。
あんな猿に仕えてられっか!
織田家での権力闘争に打ち勝ち、その後、天下人へと邁進していくことになった秀吉。
過去の経緯から、毛利方が好感を持てないのは自然なことでしょう。
毛利氏は鎌倉時代の大江氏から枝分かれした由緒ある家ですし、吉川氏も鎌倉以来の名家です。
その両方の血をひく元春にとって、ぽっと出としか思えない秀吉に従うのはそもそもプライドが許しません。
そこで元春は
「オレはあんなサルに仕えたくない!あとは頼んだぞ息子!」(超訳)
と言って隠居してしまいます。
ちなみにこの息子・吉川元長はその後ほどなくして亡くなってしまい、三男の吉川広家が家を継ぎ、後の関ヶ原の戦いでは、かの有名な「空弁当」をやることになります。
若い頃は元気旺盛だった元春も、この頃になると冷静な武将としての面が強くなっていたのでしょう。
時期は不明ながら
「智少なく勇のみある者は、単騎の役にして大将の器にあらず」
なんて経験に基づいた含蓄ある言葉を残しています。
「勇敢であっても知力が足りない者は武士としては役に立つが、将にするべきではない」というわけで、確かにその通りですね。
最期は戦病死
吉川元春の最期は、秀吉による【九州征伐】のとき。
前述の通り、既に隠居してた元春は、秀吉の強い要請と、それを受けた小早川隆景や毛利輝元の説得により出陣しました。
そして天正十四年(1586年)11月15日、出征先の小倉城(現在の北九州市)で息を引き取ります。
五十七歳。
法名は随浪院海翁正恵。
広島県山県郡豊平町海応寺の海応寺墓所に葬られています。
出陣前から既に病気を患っていたそうですが、最期まで戦場に立ちたかったのか、あるいは秀吉相手に強弁して毛利家に類が及ぶことを恐れたのか。
残された新庄局や子供たちの気持ちを考えると、なんとも言えない気分になりますね。
『豊臣兄弟!』でそうしたシーンも描かれるかどうか。2026年の大河ドラマに注目しておきたいところです。
あわせて読みたい関連記事
毛利元就が安芸の小勢力から中国地方8カ国の大大名に!その戦略戦術は神業なり
続きを見る
元就の長男・毛利隆元はどんな武将だった? 失って初めて実感する跡取りの偉大さ
続きを見る
元就の三男・小早川隆景はキレ者だった~王佐の才は毛利や秀吉に重宝されて
続きを見る
なぜ吉川広家は毛利家の裏切り者とされるのか 滅亡から救った救世主ではない?
続きを見る
元就の孫・毛利秀元が文禄の役で鮮烈デビュー!毛利軍3万の総大将
続きを見る
穂井田元清(元就の四男)は虫けらじゃねぇ!謀将子息の知られざる功績とは?
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
河合正治『毛利元就のすべて 新装版』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
吉川元春/wikipedia