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【吉川元春】
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元就による吉川家乗っ取り計画の有無
二人の結婚は天文16年(1547年)――この結婚と同時期に行われていたのが、元就による「吉川家乗っ取り計画」でした。
といっても、吉川家の重臣たちから元就に持ちかけられた話でもあり、毛利家だけが腹黒かったのかどうか……?
実は、当時の吉川家当主だった吉川興経(おきつね)は、尼子氏と大内氏との間をフラフラしており、両家+家中から信頼を失っていました。
そのため吉川家の家老たちが
「興経様はもうダメだ、よそから優秀な方を迎えて家名だけでも残そう」
と考え、縁のある元就に話を持ちかけた……ということになっています。
元就の妻が吉川氏出身だったため、元就夫妻の息子を新たな吉川家の当主に迎えれば、血も残るからです。
とはいえ、興経には息子・千法師がいたので、順当に行くならば千法師を立てて興経を締め出せばいいだけ(もしくは物理的に〆ればいいだけ)の話でもある。
それを鑑みて、やはりこの件は「吉川氏を完全に乗っ取りたかった元就の陰謀だ」という見方が強くなっています。
実際元就は、元春が吉川家に入った天文十七年(1548年)に興経父子をこの世から排除していますしね。
こうして元春は名実ともに吉川氏の主となり、弟の隆景が入った小早川家と共に実家の毛利家を支えることに。
石見に吉川氏の分家がある関係上、元春は彼らを足がかりにして石見の国人たちを味方につけ、そのまま山陰地方の攻略と尼子氏対策を担当することになります。
なお、この間に元春は大内氏の支族・右田弘詮が編集した『吾妻鏡』を入手したとされており、これは現代まで伝わっているとか。
元春にとっても母方のご先祖である吉川経基が文武両道の見本みたいな人でしたので、あやかりたいと思ったのでしょう。
毛利快進撃を支えた元春の戦歴
こうして武将としての階段を順調に登っていった吉川元春。
弘治元年(1555年)【厳島の戦い】では、毛利軍の先鋒となって陶軍の弘中隆兼を打ち破り、山陰攻略では石見銀山の占領を成功させるなど、華々しい功績を積み上げていきます。
永禄五年(1562年)からは尼子氏の本拠・月山富田城(がっさんとだじょう)攻略に向けて、敵方の城を攻略し続けました。
元春が優れているのは、武力に偏ったところではないところでしょう。
月山富田城の包囲時には、21ヶ月もかけて『太平記』40巻を書写していたとか。
本人の興味関心もさることながら、”陣中でも勉学に励む文武両道の若大将”や”吉川にふさわしい当主”といったイメージを作るための策だったかもしれませんね。
さらにこの後、永禄十二年(1569年)からは、九州進出のため大友氏と戦ったり、その隙を突いてお家再興を目指した山中幸盛(鹿之助)・尼子勝久らと戦ったり、九州に逃れていた大内氏の親族・大内輝弘が山口に侵入してきたのを打ち破ったり。
八面六臂といっても過言ではない奮戦ぶりをみせています。
しかし派手なところは弟の小早川隆景のほうが多く、元春はこの出来の良すぎる弟に面白くない気分でいたこともあったとか。
信長包囲網の一角を担う
時を少し遡りまして、永禄六年(1563年)に長兄の毛利隆元が死亡。
元亀二年(1571年)に父の毛利元就が亡くなると、吉川元春は弟の小早川隆景と共に、新当主となった甥の毛利輝元(隆元の息子)を守り立てていきます。
次の大きな課題は、西日本へ勢力を伸ばしてくる織田信長への対応でした。
実際に進軍してきたのは羽柴秀吉や黒田官兵衛などですが、それ以前に、上方を追われた室町幕府の十五代将軍・足利義昭が勝手に毛利氏の領内へ来てしまったことも影響しています。
毛利氏としては元就が
「我が家は天下を望むな」
と遺言していたこともあって、当初は織田氏と対決するつもりはありません。
しかし、上方から流れてきた義昭を匿っているように見え、織田氏が九州の諸大名にも工作し始めたことなどから、毛利としても対峙せざるを得なくなってしまいます。
そこで上杉謙信や本願寺らと手を組み、【信長包囲網】の一翼を担う立場になりました。
毛利氏としては自領が確保できれば良いわけで、織田家に臣従するのはまっぴら御免なわけですから、時間の問題だったのでしょう。
そして天正四年(1576年)7月13日に激突――大坂を舞台とした【第一次木津川口の戦い】で、本願寺と共に織田軍相手に勝利を収めます。
【焙烙火矢】という陶器製の手榴弾のような武器を多用し、織田軍の船を焼き払った戦いとしてよく知られています。
これに対抗するため、信長が作らせたのがかの有名な【鉄甲船】です。
信長考案の鉄甲船~毛利・村上水軍を破ったのは鉄に覆われた巨大船だったのか?
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鉄甲船が実際どのようなものだったか。現代でも結論が出ていませんが、少なくとも焙烙火矢を喰らっても支障がないような船になっていたのでしょう。
かくして織田軍のプレッシャーは日増しに強まっていくのです。
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