斎藤家 信長公記

信長が殿(しんがり)を担った長良川! 道三敗死からの撤退戦~信長公記24話


当時の尾張国内はどんな勢力図だった?

まずは岩倉城(現・愛知県岩倉市)の主・織田信安が、義龍方について信長に敵意を表します。
信安は尾張上四郡の守護代である、織田伊勢守家という系統の武将です。

尾張下四郡の守護代が、この時点では既に信長らによって滅ぼされていた織田大和守家で、信長の織田弾正忠家はもともと大和守家の家臣。
ということは、信安は建前上、信長の目上に近い感じになります。

ちょっとややこしくなってきたので、当時の尾張における上下関係をマトメておきましょう。
実力とは噛み合っていないのがミソです。

尾張守護:斯波義銀(よしかね/幼名・岩龍丸)

尾張上四郡守護代:織田伊勢守家(織田信安)
尾張下四郡守護代:織田大和守家(織田信友・この時点で故人)―織田弾正忠家(織田信長)

斯波義銀とは、15話で斯波義統(よしむね)が殺された際、信長のもとへ逃げてきていた人です。
この後も少しだけ出てきます。

実際には、大和守家が信長によって滅ぼされていますので、下四郡の守護代は不在。
公式に認められてはいないものの、実力的には信長がその立ち位置でした。

 


互いに近隣の村を焼き討ちして

正式な守護代である織田信安からすると、信長はこうなりましょう。

「家臣だったくせに、自分の同僚(みたいな人物)をブッコロしたいけ好かないヤツ。いつか自分のことも殺しに来るに違いない。やられる前にやってやれ!」

まぁ、戦国時代においては戦を始める理由になりますね。
そんなわけで、信安勢は清州城の近くにあった村を焼き討ちしました。

どう見てもケンカ売ってますね。
当然、信長も腹を立てます。

直ちに岩倉方面へ兵を向け、お返しとばかりに火を放ちましたが、この時点ではすぐに引き上げました。
「このくらいで済ませてやるうちに、敵対するのをやめろ」という含みを持たせていたのでしょうか。

残念ながら、そうはなりませんでした。

そしてここからしばらく、信長はまた尾張国内の敵と戦うことになります。
その中には、血を分けた兄弟も含まれていました。
詳細はまた後日。

なお、長良川の戦いは以下の記事に詳細がございます。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

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村木砦の戦い 信長が泣いた~戦国初心者にも超わかる信長公記14話

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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。

信長公記

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麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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