東日本における戦国大名の研究は、どの大名が最も進んでいるか?
そんなもん上杉謙信や伊達政宗あたりでしょ――と思われるかもしれませんが、こと「戦国大名としての国経営」となると、関東の後北条氏が最も盛んという指摘があります。
小田原征伐で同氏が滅亡した後に徳川家康が江戸へ入り、同エリアを所領化したときに、後北条氏が持っていた地域データを保全したから、というのがその理由。
江戸時代を通じ、当時の生々しい史料が現代まで状態よく残されていて、そこから様々な内容が確認できるんですね。
例えば『合戦のときに米(兵糧)はどの城へいくら運べ』といった記録なども含まれます。
ただし、いざ合戦中の様子などについては、残念ながら記録が少ないのは後北条氏でも同じ。
槍、馬、弓、鉄砲の各部隊・各兵士たちが「実際にどんな風に戦ったのか?」というのは戦国時代の全体を見渡しても意外にわかっておりません。
ましてやそれが「奇襲」ともなれば、敵をひたすら混乱させるために戦うワケですから、詳細な様子は描かれにくいのですが、それでも後北条氏を語るときに絶対に欠かせない合戦というものがあります。
【河越城の戦い(河越夜戦)】です。
北条早雲(伊勢宗瑞)を含めて同家3代目となる北条氏康が、数倍もの大兵力を相手に奇襲を仕掛けたこの一戦。
【桶狭間の戦い】や【川中島の戦い】並に劇的な合戦だったのに、なぜか世間的な注目度の低い戦いであります。
なぜあまり知られてないのか?

北条氏康/wikipediaより引用
その理由を考えると、この合戦がとにかくややこしく、それでいて話の信憑性も危ういからでしょう。
天文15年(1546年)4月20日に起きた日本3大奇襲の一つ・河越城の戦い(河越夜戦)について見てみたいと思います。
関東戦国時代の合従連衡だった
河越夜戦とは?
簡単に言うと「後北条氏を皆でぶっ潰そうね!」という戦いです。
長年敵対していた関東の複数大名家が連合を組み、城を囲んでいたところ、ものの見事に返り討ちにあった――という何とも情けない話であります。
まぁ、情けないというか北条氏康が凄かったんですね。
まずは背景をざっくり見ていきましょう。
当時、戦乱期真っ只中の関東地方は、群雄割拠としか言いようのない地域でした。
以下の【立河原の戦い】でも触れましたように、
一つの国を二つ三つ・あるいはそれ以上の大名が取り合ってるなんて状態がデフォルト。
さらに東北や甲信越からよその家がつっつきに来るなんてことが当たり前だったのです。

理由はいろいろありますが、他の地域と比べて起伏が少ない地形であることや、雪で行軍が妨げられることがあまりなかったのが大きいのでしょう。
普通こういうときって地域ごとに”名門”とされる家があって、そこに擦り寄ったり敵対して大まかな勢力図ができていきます。
関東の場合、その名門武家の中でデカイにも程がある亀裂が入っていたので、どうしようもありません。
上杉氏と各所の公方(足利一門)のことです。
上杉氏内では山内家と扇谷家で40年以上も派手なケンカをしていました。
公方のほうも勝手に名乗ったりお家騒動を起こしたり、この両者が絡んで余計ややこしくなったり。
さらに小田原方面では北条早雲の後北条氏が興り、

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
その他、佐竹氏・結城氏・里見氏など鎌倉以来のこれまた由緒正しい家がたくさんあって、当然どこも生き残りをかけて必死。
戦乱期の関東地方はとにかく複雑でした。
信玄・謙信に並ぶ名将だった
こうした緊張の空気の中、後北条氏の二代目・北条氏綱が亡くなります。

北条氏綱/wikipediaより引用
後を継いだのは、まだ若い三代目の北条氏康でした。
となると、周囲の大名が「早雲と氏綱にはさんざんヤな思いさせられたけど、あの若造なら叩き潰せるでしょ」と考えるのは自然な流れ。
狙われる方はたまったもんじゃないですが、弱肉強食の世界ですから仕方ない。
そして後北条氏の要衝・河越城(現・埼玉県川越市)を上杉氏の二家+古河公方家の軍が取り囲みました。
当初、河越城にいた後北条軍は3,000ほど。
対して包囲側は8万超の大軍団ともされます。
ロクに戦わなくても、すっぽり取り囲んで兵糧攻めを仕掛ければ絶対に負けないはずの戦でした。

将だけでなく兵士たちにも余裕があったでしょう。
しかし、彼らの目論みはあっさり外れます。
後北条氏の三代目こそ、同家の最盛期を築いた名将・北条氏康だったのです。
相手がダレたところに様々な計略を施して
氏康は当初、この絶望的な包囲網に対し、8,000程度の兵しか率いておらず、失笑を買う程でした。
まぁ、包囲側は名門の名を振りかざしてあっちこっちから人数をかき集めたのに対し、後北条氏だけではそもそも兵の集めようがないです。
しかし、後北条氏は不利な状況だからこそ準備に余念がありません。
河越城を守っていたのは氏康の義弟・北条綱成で、いざというときのために食料を備蓄していたので、しばらくの間持ちこたえることに成功します。

『江戸図屏風』にある川越城(河越城)/wikipediaより引用
対して、楽勝だとわかりきっていたはずの包囲側は、次第に戦意がなくなってきます。平たく言えばダレてきます。
こうなると戦力関係なく気の弛んだほうが負けるのはお約束。
そんな状況を見た氏康は、「やりようによっては勝てる」と考え、計略を巡らせます。
偽りの降伏を持ちかけたり、適当に兵を退いたりして「ワタシ達は戦うつもりなんてありませーん」と見せかけました。
ホントに戦意がなければそもそも兵を連れてこないはずなんですが、包囲側はあっさりこれに騙されてしまいます。何やってんだか……。
氏康「みんな裸になれー!」兵士「アッー!」
そして準備が整った4月20日深夜――氏康は兵を四隊に分け、鎧や兜を脱がせました。
夜+戦といえば奇襲です。
どう考えても多勢に無勢なこの状況。しかも相手は油断しきっているとくれば、夜襲ほど効果的な策はありません。
そして身軽に動く・敵に動向を悟られないためには、音を立てやすい装備は外してしまったほうがいいと考えました。
氏康は動きます。

抜き足差し足で包囲軍に攻めかかったところ、面白いほどの大混乱が起きました。
「こんなに優勢な俺達が負けるわけはない」と考えていた包囲軍はバケツいっぱいの蜘蛛の子を散らしたような状態……気持ち悪い例えでスンマセン。
その結果は?
・扇谷家の当主が討死するというまさかの事態
・山内家は当主こそ無事だったものの、重臣を何人か失う大損害
・古河公方軍は城から打って出てきた綱成にコテンパンにやられて敗走
・包囲軍の死傷者、13,000~16,000とも(=後北条氏の全軍より多い)
いくら気が緩んでたとはいえ、どこの家も見張りくらい立ててたでしょうにこの有様です。何がどうしてこうなった。
もっとも、この戦に関しては記録がハッキリしていない点も多いので、全てが事実であるかどうかはなかなか怪しい面もあります。
山内家は衰退 謙信を頼る
いずれにせよ、この戦いの後当主を失った扇谷家はあっさり滅亡。
山内家も衰退して元は家臣筋であった長尾景虎(後の上杉謙信)を頼るハメになったことは事実です。

上杉謙信/wikipediaより引用
また、古河公方家についてはいろいろややこしい経緯があるのですが、端折っていうと最終的に「名門(笑)」的な扱いを受ける凋落ぶりでした。
こうして「室町幕府のお墨付きだから俺たちはエライんだ!」とほざいていた家は一気に姿を消し、代わって後北条氏などの戦国大名が表舞台に出てくるようになります。
同時に武田信玄や上杉謙信が登場するので、関東地方が落ち着くのはやはり豊臣秀吉が【小田原征伐】を終えて、家康が入ってからの話ですけども。
もしも北条氏康が生きていたら、秀吉を相手にどんな采配をしたんですかね?
歴史IFは詮無きことながら、どうしても考えてしまう――兎にも角にも、河越城の戦いは見事な一戦だったと伝わります。
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【参考】
国史大辞典
齋藤慎一『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))』(→amazon)
河越城の戦い/wikipedia





