北条綱成

絵・小久ヒロ

北条家

北条綱成の生涯|氏綱や氏康の躍進を支えた北条五色備の勇将を史実から探る

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里見氏相手に城を守る?

北条綱成は天文年間、主君・北条氏康の命で下総生実(千葉市中央区)へ出向き、有吉城を築いたともいわれています。

安房から北上しようとしていた里見氏を牽制するためですね。

※現在は有吉公園となっている有吉城(千葉市緑区おゆみ野有吉)

里見氏の軍記物には、里見義堯がこの有吉城を天文二十一年(1551年)に包囲した話が載っています。

当時この地に留まっていた北条綱成は、里見の攻撃を防ぎながら、援軍を求める使者を小田原へ送りました。

すると、相模に戻っていた弟の北条綱房が、使者の件を知って急遽有吉へ。

このとき相模朝倉氏の朝倉景隆も同行しており、有吉城を囲んでいた里見軍は、綱房の軍を

「後北条の主力が来たぞ!」

と勘違いし、包囲を解いてしまいます。すると、

「好機!」

と判断した綱成がチャンスとばかりに城を出て、里見軍に襲いかかり、結果、敵軍を追い返すことに成功した――そんな話であり、機を見るに敏な綱成の戦上手ぶりがうかがえます。

河越城の戦いや数多の戦場で、そうした能力を発揮していたからこそ「地黄八幡」の話も後世に伝わったのでしょう。

残念ながら、軍記物ゆえに事実かどうか不明ですが、里見氏から見ても「綱成は侮れない奴」だったはず。

 


小田原征伐を知らずに亡くなる

元亀二年(1571年)10月に北条氏康が死没。

すると北条綱成も元亀三年(1572年)年始の頃、嫡子の北条氏繁に家督を譲ったと考えられています。

しかし、経験豊富で勇猛な武将はそう簡単には引退させてもらえません。

綱成は、その後も軍役を義務付けられ、亡くなったのは天正十五年(1587年)5月6日、73歳でした。

世の中の流れと合わせて考えると、綱成の死去は

・本能寺の変から5年後

・豊臣秀吉が関白になってから2年後

・小田原征伐の3年前

にあたります。

彼が秀吉に対して何を思っていたかは全くわかりませんが、小田原征伐前後の北条家臣たちにしてみれば、

「もう少し長生きしてもらいたかった」

と思えた人物の一人でしょうね。

北条綱成なら、どんな戦い方をしたか……非常に気になるところではあります。

甥の松田憲秀は小田原城守備の一角を担っていますね。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)

なお、綱成の子である北条氏繁や、孫の氏舜などが早くに亡くなったため、秀吉軍に囲まれた当時はもう一人の孫・北条氏勝の代となっていました。

氏勝は大名として江戸時代を迎えたものの、実子に恵まれず、さらに養子に迎えた北条氏重が無嗣断絶で改易されるという憂き目を見ています。

幸い?にして氏勝の弟の系統が旗本として残り、完全な断絶は免れました。

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【参考】
黒田基樹『北条氏康の家臣団 (歴史新書y)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条五代 (星海社新書 149)』(→amazon
志村平治『相模朝倉一族―戦国北条氏を支えた越前浅倉氏の支流 (戎光祥郷土史叢書 02)』(→amazon
峰岸純夫/片桐 昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
国史大辞典
日本人名大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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