戦国武将・猪俣邦憲の生涯とは?名胡桃城事件の実行者として知られ、北条氏滅亡のキッカケを作ったとして非難されることも。果たして邦憲の責任なのか?その生涯を振り返る。

北条家

北条氏滅亡の戦犯とされる猪俣邦憲|名胡桃城事件の実行者に責任はない?

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猪俣邦憲の生涯
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北条氏政や氏照には慰労され

名胡桃城を奪取した猪俣邦憲は、その後も沼田にとどまっていました。

彼の行為は咎められるどころか、翌天正十八年(1590年)1月には、北条氏政と北条氏照が慰労するほどです。

※以下のマップは小田原城から名胡桃城へのルート(徒歩で約45時間)

名胡桃城事件は、邦憲の単独行動ではなく、北条氏の総意だったんですね。

なんせ北条氏邦も、同じタイミングで下野の宇都宮氏へ攻め込んでおり、当時の北条氏が

「秀吉なんて適当にやり過ごしていれば問題ないだろ」

という程度の認識だったことが浮かんできます。

北条氏邦が宇都宮氏に仕掛けている時点で、秀吉の「惣無事令」に従うつもりなどサラサラなさそうなのです。

ちなみに宇都宮氏は、天正十三年(1585年)頃から秀吉への接触を始めており、北条氏が幅を利かせる関東圏の中で孤立していました。

宇都宮氏は確かに、天正十七年(1589年)に北条氏へ人質を出し、臣従もしています。

しかし、腹の底では秀吉のほうがまだマシだと判断していたのでしょう。

北条氏は「秀吉の大軍に攻められる」という緊張感はなく、武田信玄上杉謙信の包囲にも耐えた小田原城なら余裕で籠城できると思ったのか、秀吉を相手に戦の準備をしている様子すらあったとされます。

あるいは徳川家康を通じて交渉をしていることもあり、さすがに合戦に発展するとは思ってなかったのかもしれない。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikipediaより引用

しかし現実は甘くありませんでした。

秀吉は小田原征伐を決定。

20万ともされる大軍が様々な方面から関東へやってきたのです。

 


小田原征伐中の沼田は?

天正十八年(1590年)、いざ小田原征伐が始まると、沼田城が主戦場になっていないことも注目したほうがいいかもしれません。

小田原征伐では、豊臣方の諸大名が手分けして北条氏の城を攻めていました。

北関東は前田利家上杉景勝などが担当であり、北条方の大道寺政繁が守っていた松井田城(群馬県安中市松井田町)を攻撃。

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

天正十八年(1590年)4月20日に陥落させています。

この時点で猪俣邦憲がいた沼田城はまだ攻略されていなかったと考えられますが、同年6月までには開城し、邦憲は実弟の富永助重と共に前田軍へ降ったとされます。

利家は4月22日、大道寺政繁と伊達政宗の使者を連れ、小田原の秀吉に会っており、松井田へ戻ってきたのは5月1日のことでした。

近隣の北条方の城のうち、箕輪城が4月24日に戦わずして開城しており、前橋・佐野・川越城なども続きます。

沼田城から見ると、南方(=小田原)との間にある味方の城が次々に開いており、猪俣邦憲だけが抵抗していても意味はなく、程なくして開城となりました。

 


前田利家に仕え

猪俣邦憲と弟の富永助重はその後、前田家に仕えたとされます。

この件と関係あるのかどうかは不明ですが、同年7月前半頃、前田利家が秀吉の勘気を蒙ったらしきことが記録されています。

浅野長政が間に入り、7月下旬には許されているので、利家の進退を左右するまでの重大事ではなかったのでしょう。

そこで想像してしまうのが、猪俣邦憲です。

利家が助命嘆願を行い、そのせいで秀吉が「北条滅亡の発端となった者を見逃せというのか!」と激怒した可能性はいかがでしょう?

秀吉は、北条氏政や北条氏照、重臣の大道寺政繁と松田憲秀切腹させています。

もしも猪俣邦憲が自ら名胡桃城へ攻めかかっていたとしたら、同様に処罰されていたのでは?

小田原征伐の戦後処理は、当主である北条氏直が「私が腹を切るので将兵の命をお助けください」と願い出た結果、「神妙である」として犠牲者は最小限にとどめられました。

その際、名胡桃城の一件も小田原からの命令であると秀吉が認識したからこそ、邦憲が赦免された可能性は否定できないでしょう。

名胡桃城址

猪俣邦憲は、加賀藩でそれなりの領地を与えられたようです。

慶長十年(1605年)には息子が継いでおり、この年あたりで亡くなった様子。

最後に3つのポイントを整理しておきたいと思います。

・名胡桃城を強奪した猪俣邦憲は、北条氏政に咎められるどころか慰労されていた

・小田原征伐の結果、切腹させられたのは北条氏政・北条氏照・大道寺政繁・松田憲秀であり猪俣邦憲は含まれていない

・その後は前田利家に仕官し、息子が跡を継いでいる

やはり名胡桃城事件における猪俣邦憲の責任は感じられません。

そもそも北条氏が秀吉に滅亡させられたのは名胡桃城だけの要因ではなく、秀吉との交渉の間に徳川家康が入っていたためスムーズにいかず、不幸なすれ違いがあったことなども指摘されています。

『北条記』などでは邦憲が「知恵分別なき田舎武者」と罵られていますが、矛先を誘導している気がしてなりません。

今後、研究が進んだら、また違った評価になりそうな武将の一人ではないでしょうか。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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