大河ドラマ『べらぼう』でウザキャラ全開の滝沢瑣吉。
そのモデルは『南総里見八犬伝』の著者である曲亭馬琴であり、瑣吉と同時に出てきた勝川春朗こと葛飾北斎もあまりにインパクトが強すぎて、呆気に取られてしまった方も多いでしょう。
同時にこうも思いませんでしたか?
「馬琴と北斎がなぜ同時に出てきたんだろう……」
実はこの二人、同時期同じ場所で活躍した日本史上でもトップクラスの戯作者であり絵師であるため、フィクションで描くには最高の組み合わせなのです。
だからこそ大河ドラマ以外でも活躍の場があり、今回、注目したいのがこちら。
2024年に公開され、2025年に配信の始まった映画『八犬伝』です。

映画『八犬伝』/amazonより引用
『べらぼう』の舞台では描ききれない『南総里見八犬伝』の制作過程を役所広司さん(曲亭馬琴)と内野聖陽さん(葛飾北斎)が演じたもので、大河ドラマで描かれる青年期の二人とはまた別の魅力があり、できれば同時に見ておきたいもの。
今回はそのレビューをお送りいたします。
なお、先に一点だけ注意事項があります。
本作の印象があまりに強すぎるせいか、この二人が『南総里見八犬伝』でもコンビを組んでいたという誤解があるようです。そうではなく、このゴールデンコンビの手がけた作品の最高峰は『椿説弓張月』です。
作中の北斎は、自分の描いた『八犬伝』の素描を毎回廃棄しております。
※2025年11月現在Amazonプライム会員(→amazon)なら無料
| 基本DATA | info |
|---|---|
| タイトル | 『八犬伝』 |
| 原作 | 山田風太郎『八犬伝』 |
| 制作年 | 2024年 |
| 制作国 | 日本 |
| 舞台 | 江戸時代後期、19世紀前半、江戸 |
| 時代 | “実”パートは江戸時代後期 |
| 主な出演者 | 役所広司、内野聖陽、寺島しのぶ、黒木華 |
| 史実再現度 | 高 |
| 特徴 | 特徴 虚と実の絡み合いが生み出す独自の味わいがある |
あらすじ
どうしてあんたみてえな石頭から、こんなてぇしたモンが生み出されんだよ――江戸の粗末な家の二階で、あの葛飾北斎が呆れたように言う。
目の前にいるのは、堅物で知られる文人、曲亭馬琴だ。
煮ても焼いても食えない頑固者で、人付き合いも断ってばかりの馬琴は、手に汗握るような大傑作『八犬伝』のプロットをこの変人絵師に語っていた。
この作品を描く最中、馬琴は何を思っていたのか。
どんな苦労を味わっていたのか。
そしてどんな奇跡があったのか?
日本史上に残る伝奇小説の誕生がスクリーンを通じて描かれる。
「虚」と「実」のパートで構成される作品
この作品は、原作から受け継がれた変わった構造があります。
「虚」という『八犬伝』を映像化した部分。
「実」という曲亭馬琴の実生活。
これが入り混じり、入れ替わり展開をしてゆきます。
VFXを駆使し、色鮮やかな「虚」。
一方で狭苦しい江戸後期の「実」。
「実」のパートでは、北斎がこうぼやきます。
「絵にならねぇな」
馬琴の妻であるお百がケチをつけているように、ジジイ二人が狭苦しい部屋で語り合っているだけといえばそうです。
しかし、この馬琴と北斎の語っているだけの場面がどういうわけか無茶苦茶面白い。
最初は不思議なこの構成が、みていくうちに絡まり合ってゆく様が、実に絶妙なのです。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
地味で、奇妙で、癖のある江戸の偉人たち
文人目線で作られた作品といえば、2024年『光る君へ』があります。
あの作品は主人公の人生経験が作品に反映されているところが見どころとされました。
本作はその逆です。
北斎が感心しているように、あんな地味で真面目で堅物であるジジイが、どうしてあんな世界を思い描けるのか。そこが重要なのです。
『八犬伝』は中国の『水滸伝』をはじめとする白話小説や古典を元にしておりますが、本作ではそこに注目していません。
むしろエンタメのフォーマットに、自分なりの信念を頑固にねじ込んでいく。その生真面目さをとことん強調しているのが、この作品になります。
なにせ、八犬士の持つ珠には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌と浮かび上がるほどですから。
馬琴と北斎という、日本史に名を残す偉人を描きつつも、彼ら自身は人間的に欠点だらけであることも、本作の特徴といえます。
史実や原作よりは薄めてあるものの、馬琴は家族や友人にするにはなかなか難しいのではないか。そうと思える人物像なのです。
妻のお百が罵倒する通り、馬琴は厳しいしつけのせいで我が子の人生を破壊しています。
今の言葉で言えば「毒親」なのです。
息子の宗伯が病弱かつ、大変な境遇であることは馬琴だけのせいではないですが、あんな堅物の子であれば人生は辛いだろうと思えてきます。
『べらぼう』で描かれる青年期の馬琴を知っていると、自分のことを棚上げして一体何なのかと思るかもしれません。馬琴の人生における変化において説明しましょう。
彼は結婚して妻子を得た一方、兄と甥が亡くなっておりました。
『べらぼう』の時代は武家を継ぐことのない戯作者として生きられたものの、このころは武士である滝沢家の存続がかかっております。滝沢家が存続できるのは宗伯だけ。その重圧が馬琴にのしかかるようになっていたのです。
妻のお百は、映像化によって人間像はよく掴めるようになりました。
悪妻として悪名高いお百。しかし彼女が夫と対立しているのは、妻を無学と侮る馬琴自身に問題があるのだと、はっきりと伝わってきます。
お百は夫を憎んでいるだけではない。語り合う北斎に嫉妬しているのだと伝わってくる。
寺島しのぶさんのお百は悪妻の顔の下に、嫉妬する健気な愛らしさすら滲んでいて本当に素晴らしい。
北斎は育児放任主義だと劇中で語っています。
要するにネグレクト。原作ではさらに詳しく書かれておりますが、父や祖父としては本当に無茶苦茶です。
こんな駄目人間たちが狭苦しい部屋で話し合っているだけなのに、どうしてこんなにもあたたかく優しい気持ちになれるのか?
実に不思議な作品です。

葛飾北斎82歳のときの自画像/wikipediaより引用
「虚」パートも必須だ
「実」パートがあまりに素晴らしいため、「虚」パート不要論すら出てくるのではないか?と私も最初のころは思っておりました。
「実」パートの役所広司さんと内野聖陽さんがあまりに達者で、若手役者が多い「虚」は落ちるとも感じたものです。いっそ「虚」はアニメにするのもありかとも感じました。
しかし、その考えは変わってゆきます。むしろ八犬士は定期的に映像化していくべきだと思えてきます。
特に栗山千明さんは、山風の描く妖艶な悪女そのもの。彼女は時代劇悪女でこそ輝く魅力があると思えました。
この玉梓に祟られたいとすら思えてくる。本当に圧倒的、凄絶なまでの美貌です。
そして板垣李光人さん。彼は二度大河ドラマ出演経験があるものの、どちらの作品でもあまり魅力が活かせていないと感じたものでした。
『どうする家康』での出番は、女装して暗殺を狙う場面から始まりました。それが『南総里見八犬伝』における犬坂毛野そのままで、こんな劣化版を見せるくらいなら、いっそ彼が毛野を演じないだろうかと思っていたものです。
それが映画で実現したのです。
想像以上に美しい毛野でした。これが見たかったのだ! そう感激のあまり涙までじわじわと滲んできたものです。
他の八犬士も、犬江親兵衛の年齢がやや上だったことくらいしか違和感はありませんでした。犬江親兵衛にせよ、原典の扱いが特殊であるため、致し方ないかとは思います。
そもそも『八犬伝』をタイトルに入れておきながら、芳流閣を映像化しないことはあり得ないんですね。

月岡芳年『芳流閣両雄動』/wikipediaより引用
江戸の狭い長屋にいるジジイ二人だけでは、宣伝するには地味すぎる。
「虚」パートも、やはり必要ではないかと納得できます。
「虚」は要するに、かなり端折ったダイジェスト版『南総里見八犬伝』です。
とはいえ、そもそもが長大すぎるこの作品は映像化が困難。実は翻訳も後半部はカットされております。
名場面とプロットをなぞるこのやり方が、実は最もメディア化に適しているのではないかと思います。
『南総里見八犬伝』は有名なのに、忠実な形で再現されることがない作品なのです。それを踏まえると、この映画、実は最適解を見出せたようにも思えます。
「虚」パートを見ていくと、改めて馬琴の性格も理解できます。
ミソジニー(女性嫌悪)が強いのです。
ヒロインたちは悪女か聖女しかいない。悪党はだいたい悪い女房に唆されている。ダイジェストで見ると、あまりにワンパターンだと改めて思えてきます。
これは江戸時代だからそうなのではなく、同時代の作家でももっと魅力的なヒロインを描いた人はいます。
やはり、作品には作者の性格が反映されるものだと「虚」パートを終えた時点でわかります。
そして、この馬琴の性格を掴んでこそ、「実」パートの大団円が生きてくるのです。
「虚」と「実」が重なるとき
そんな馬琴の女性への嫌悪感をおさらいしつつ、「実」パート最終盤を迎えると、そこには奇跡が待ち受けています。
あれほど女性を見下していて、妻の無学ぶりを嫌っていた馬琴。
しかし、苦難だらけの人生において、本当に彼を助け、願いを叶えるのは嫁のお路でした。演じる黒木華さんも、原作のイメージそのもの。彼女の真剣なまなざしには覚悟が宿っていました。
馬琴の目は長年の酷使により見えなくなる。
そのとき、誰もが成し得なかった口述筆記を行ったのは、このお路だったのです。
二人を見て、北斎はこう言います。
「あれは絵になる」
確かにその通り。狭苦しい江戸の世界が、暖かい光に満ちた絵になって、物語は結末へと向かってゆきます。
江戸から、いかにして奇跡の物語が飛び立ったのか
「実」パートも、馬琴と北斎トークだけを愛でるためだけのものではありません。
二人がそろって鶴屋南北が書いた歌舞伎を見にいく場面があります。
飲食自由。わいわいと自由に観劇できた江戸期の再現は、実に貴重なもの。そしてこの場面は、馬琴の制作姿勢が掴める欠かせない場面です。
原作では山東京伝と京山兄弟のような別の文人との対話もあるのですが、尺の都合上出てきません。
しかし、この鶴屋南北との対話は欠かせません。
ここの対話は、原作者である山田風太郎同士が語り合っているようにも思えました。
皮肉屋で世の中を斜めから見ているような鶴屋南北は、若い頃の山田風太郎。
それに対し、生真面目に作品を通して正義を伝えたいと反論する馬琴は、この原作執筆当時の山田風太郎。
青年期に敗戦を味わい、何もかも信じられなくなった風太郎。
日本史とその英雄を賛美するようなことはせず、むしろ踏み躙られる側から見た歴史を描いてきました。
司馬遼太郎や池波正太郎も取り上げない。どこから切り取ろうが憂鬱になり、日本史の暗部そのもので直視したくない。
そんな【天狗党の乱】を『魔群の通過』として小説にしたのも、実に彼らしい。

山田風太郎作品『魔群の通過』は天狗党の悲劇を描いた傑作小説です/amazonより引用
娯楽に徹しているようで、日本軍部を茶化すようなことが持ち味です。
しかし、この原作は彼なりに馬琴たちを讃えているように思えます。
原作の末尾には、馬琴の『南総里見八犬伝』はデュマの『三銃士』よりも先立つ完成であることが書かれています。
こんな素直にまっすぐに、日本史上の人物を褒めるとは、彼なりにひとつの何かを見出したのだろうかと思えます。
それが人間的に凹凸があり、かつ明治以降、時代錯誤だとさんざん批判されてきた馬琴であるところが、実に風太郎らしい。
彼は明治維新は、敗戦へ向かった端緒だと見出しており、明治ものは敗者である幕臣や会津藩士が主役であることが多いものでした。
明治維新以降、劣っている日本文化代表格であった『南総里見八犬伝』をこうも褒め称えることは、彼なりの愛に思えるのです。
そうした原作にあった愛が、映画版でも消えずに残っている。
欠点はあるし、長いし、見る人を選ぶ映画だとは思います。
それでも、この原作を映画化する上で最も大事な愛があるから、本作は実にえらい。そう思えます。
山田風太郎原作もののメディア化作品として、上位に入る傑作です。
『べらぼう』のお供として
2025年大河ドラマ『べらぼう』をより楽しむためにも、この映画は役立ちます。
作品の時代背景をフランス史で説明しましょう。
なぜフランス史をかといいますと、原作が『南総里見八犬伝』と『三銃士』を比較されているため。
『べらぼう』と比較しますと、世界規模の気候変動が歴史を激動させたターニングポイントもわかります。
フランス革命のころ、日本では天明の打ちこしが起きていました。
アレクサンドル・デュマと、馬琴と北斎は、このターニングポイントの後に出てきたクリエイターということになります。
版元と文人の関係も重要です。
文人が原稿料をとるようになった元祖が、馬琴とされています。
『べらぼう』で描かれたように、馬琴が無理矢理弟子入りをしようとした山東京伝がその先例ともされます。
寛政の改革で痛い目を見た京伝を奮起させるために、蔦屋重三郎と鶴屋喜右衛門が彼にギャラ制度を導入する様が描かれました。
それまでの京伝は実家の収入で食べていたことがわかります。馬琴はフォロワーとしてギャラありきの戯作者生活に入ったわけですね。
作中ではお百が、何度修正を入れるのかと夫を罵倒しています。
『べらぼう』では、『吉原細見』作りの際、蔦重が何度も修正を入れて、職人が苛立つ場面がありました。
できることならば、そんなにしょっちゅう修正を入れて欲しくない。それなのに馬琴はそうする。皆がギスギスしても無理はない。
しかも馬琴の場合は凝り性で完璧主義者なので、本人以外はそこまで重要とは思ない箇所でも直してきたのだとか。
そして馬琴の子息である宗伯の仕官先が松前藩ということも注目です。
『べらぼう』での松平定信は隠れてコソコソと黄表紙を読んでいたもの。そんな定信が推し進めた寛政の改革により、出版物の傾向も変わりました。
武勇を前面に出した「読本」が流行し、その筆頭戯作者が曲亭馬琴であったわけです。
このころになると、大名家は読本を読み、ファンであると認められるようになっていました。
『八犬伝』でも、大名夫人から呼び出される場面があります。
こうした馬琴ファンの中に、松前藩の元当主・松前道廣もおりました。『べらぼう』ではえなりかずきさんが扮したあの極悪外様大名です。
-

『べらぼう』えなりかずき演じる松前道廣は一体何者だ?冷酷の藩主像を史実から考察
続きを見る
松前藩は蝦夷地支配の不手際ゆえに結局上知(藩領没収)され、奥州梁川藩に移されていた時期があります。
その時代の当主が道廣の子である松前章廣です。
道廣は自分が大ファンである馬琴の息子であれば雇いたいと考え、宗伯を松前藩医としたのでした。
馬琴の読本を読み漁る道廣を想像すると、『べらぼう』ファンならばおかしみを覚えるのではないでしょうか。
鶴屋南北にも注目しましょう。

『市村座三階之圖』初代・歌川国貞画(真ん中右の人物が鶴屋南北)/wikipediaより引用
『べらぼう』では妖怪画の祖とされる鳥山石燕を片岡鶴太郎さんが演じておりました。
石燕は絵師の「三つ目」が見る妖怪を、素朴なタッチで描いていたものです。

『画図百鬼夜行 河童』鳥山石燕画/wikipediaより引用
そんな妖怪画がおどろおどろしく、グロテスクなものへと変貌していく契機がこの鶴屋南北の派手な舞台とされています。
このころから人々は妖怪の姿を己の目で見たものとしではなく、舞台で見たものに引き寄せるようになってゆきます。
かくして妖怪画はどんどん派手になってゆく。
北斎の妖怪画も、実にド派手なものです。

『百物語 提灯お岩』葛飾北斎画/wikipediaより引用
このことをふまえ、石燕の絵とそれ以降のものを鑑賞してみると、馬琴の戸惑いもより深く理解できることでしょう。
大河ドラマでも、映画でも、江戸文化を味わう機会が増えるのは素晴らしいことだと思います。
この作品のあとも時代劇が続き、さらに盛り上がることを願ってやみません。
あわせて読みたい関連記事
-

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家で日本エンタメの祖
続きを見る
-

葛飾北斎の何がそんなに凄いのか|規格外の絵師 尋常ならざる事績を比較考察
続きを見る
-

べらぼう時代に開花した娯楽作品の王者『水滸伝』圧倒的存在になるまでの歴史
続きを見る
-

『べらぼう』えなりかずき演じる松前道廣は一体何者だ?冷酷の藩主像を史実から考察
続きを見る
【参考】

映画『八犬伝』/amazonより引用




