映画『八犬伝』のレビュー/役所広司さん演じる曲亭馬琴と、内野聖陽さん演じる葛飾北斎。二人の偉大な戯作者と絵師、そのやりとりから目が離せない。大河ドラマ『べらぼう』と合わせて見るとより楽しくなれる作品。

映画『八犬伝』/amazonより引用

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『べらぼう』馬琴と北斎の続きを楽しみてぇなら映画『八犬伝』を見るしかねぇな

2025/11/05

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映画『八犬伝』レビュー
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「虚」と「実」が重なるとき

そんな馬琴の女性への嫌悪感をおさらいしつつ、「実」パート最終盤を迎えると、そこには奇跡が待ち受けています。

あれほど女性を見下していて、妻の無学ぶりを嫌っていた馬琴。

しかし、苦難だらけの人生において、本当に彼を助け、願いを叶えるのは嫁のお路でした。演じる黒木華さんも、原作のイメージそのもの。彼女の真剣なまなざしには覚悟が宿っていました。

馬琴の目は長年の酷使により見えなくなる。

そのとき、誰もが成し得なかった口述筆記を行ったのは、このお路だったのです。

二人を見て、北斎はこう言います。

「あれは絵になる」

確かにその通り。狭苦しい江戸の世界が、暖かい光に満ちた絵になって、物語は結末へと向かってゆきます。

 


江戸から、いかにして奇跡の物語が飛び立ったのか

「実」パートも、馬琴と北斎トークだけを愛でるためだけのものではありません。

二人がそろって鶴屋南北が書いた歌舞伎を見にいく場面があります。

飲食自由。わいわいと自由に観劇できた江戸期の再現は、実に貴重なもの。そしてこの場面は、馬琴の制作姿勢が掴める欠かせない場面です。

原作では山東京伝と京山兄弟のような別の文人との対話もあるのですが、尺の都合上出てきません。

しかし、この鶴屋南北との対話は欠かせません。

ここの対話は、原作者である山田風太郎同士が語り合っているようにも思えました。

皮肉屋で世の中を斜めから見ているような鶴屋南北は、若い頃の山田風太郎。

それに対し、生真面目に作品を通して正義を伝えたいと反論する馬琴は、この原作執筆当時の山田風太郎。

青年期に敗戦を味わい、何もかも信じられなくなった風太郎。

日本史とその英雄を賛美するようなことはせず、むしろ踏み躙られる側から見た歴史を描いてきました。

司馬遼太郎や池波正太郎も取り上げない。どこから切り取ろうが憂鬱になり、日本史の暗部そのもので直視したくない。

そんな【天狗党の乱】を『魔群の通過』として小説にしたのも、実に彼らしい。

山田風太郎作品『魔群の通過』の表紙

山田風太郎作品『魔群の通過』は天狗党の悲劇を描いた傑作小説です/amazonより引用

娯楽に徹しているようで、日本軍部を茶化すようなことが持ち味です。

しかし、この原作は彼なりに馬琴たちを讃えているように思えます。

原作の末尾には、馬琴の『南総里見八犬伝』はデュマの『三銃士』よりも先立つ完成であることが書かれています。

こんな素直にまっすぐに、日本史上の人物を褒めるとは、彼なりにひとつの何かを見出したのだろうかと思えます。

それが人間的に凹凸があり、かつ明治以降、時代錯誤だとさんざん批判されてきた馬琴であるところが、実に風太郎らしい。

彼は明治維新は、敗戦へ向かった端緒だと見出しており、明治ものは敗者である幕臣や会津藩士が主役であることが多いものでした。

明治維新以降、劣っている日本文化代表格であった『南総里見八犬伝』をこうも褒め称えることは、彼なりの愛に思えるのです。

そうした原作にあった愛が、映画版でも消えずに残っている。

欠点はあるし、長いし、見る人を選ぶ映画だとは思います。

それでも、この原作を映画化する上で最も大事な愛があるから、本作は実にえらい。そう思えます。

山田風太郎原作もののメディア化作品として、上位に入る傑作です。

 

『べらぼう』のお供として

2025年大河ドラマ『べらぼう』をより楽しむためにも、この映画は役立ちます。

作品の時代背景をフランス史で説明しましょう。

なぜフランス史をかといいますと、原作が『南総里見八犬伝』と『三銃士』を比較されているため。

『べらぼう』と比較しますと、世界規模の気候変動が歴史を激動させたターニングポイントもわかります。

フランス革命のころ、日本では天明の打ちこしが起きていました。

アレクサンドル・デュマと、馬琴と北斎は、このターニングポイントの後に出てきたクリエイターということになります。

版元と文人の関係も重要です。

文人が原稿料をとるようになった元祖が、馬琴とされています。

『べらぼう』で描かれたように、馬琴が無理矢理弟子入りをしようとした山東京伝がその先例ともされます。

寛政の改革で痛い目を見た京伝を奮起させるために、蔦屋重三郎と鶴屋喜右衛門が彼にギャラ制度を導入する様が描かれました。

それまでの京伝は実家の収入で食べていたことがわかります。馬琴はフォロワーとしてギャラありきの戯作者生活に入ったわけですね。

作中ではお百が、何度修正を入れるのかと夫を罵倒しています。

『べらぼう』では、『吉原細見』作りの際、蔦重が何度も修正を入れて、職人が苛立つ場面がありました。

できることならば、そんなにしょっちゅう修正を入れて欲しくない。それなのに馬琴はそうする。皆がギスギスしても無理はない。

しかも馬琴の場合は凝り性で完璧主義者なので、本人以外はそこまで重要とは思ない箇所でも直してきたのだとか。

そして馬琴の子息である宗伯の仕官先が松前藩ということも注目です。

『べらぼう』での松平定信は隠れてコソコソと黄表紙を読んでいたもの。そんな定信が推し進めた寛政の改革により、出版物の傾向も変わりました。

武勇を前面に出した「読本」が流行し、その筆頭戯作者が曲亭馬琴であったわけです。

このころになると、大名家は読本を読み、ファンであると認められるようになっていました。

『八犬伝』でも、大名夫人から呼び出される場面があります。

こうした馬琴ファンの中に、松前藩の元当主・松前道廣もおりました。『べらぼう』ではえなりかずきさんが扮したあの極悪外様大名です。

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松前藩は蝦夷地支配の不手際ゆえに結局上知(藩領没収)され、奥州梁川藩に移されていた時期があります。

その時代の当主が道廣の子である松前章廣です。

道廣は自分が大ファンである馬琴の息子であれば雇いたいと考え、宗伯を松前藩医としたのでした。

馬琴の読本を読み漁る道廣を想像すると、『べらぼう』ファンならばおかしみを覚えるのではないでしょうか。

鶴屋南北にも注目しましょう。

『市村座三階之圖』初代・歌川国貞画

『市村座三階之圖』初代・歌川国貞画(真ん中右の人物が鶴屋南北)/wikipediaより引用

『べらぼう』では妖怪画の祖とされる鳥山石燕を片岡鶴太郎さんが演じておりました。

石燕は絵師の「三つ目」が見る妖怪を、素朴なタッチで描いていたものです。

『画図百鬼夜行 河童』鳥山石燕画

『画図百鬼夜行 河童』鳥山石燕画/wikipediaより引用

そんな妖怪画がおどろおどろしく、グロテスクなものへと変貌していく契機がこの鶴屋南北の派手な舞台とされています。

このころから人々は妖怪の姿を己の目で見たものとしではなく、舞台で見たものに引き寄せるようになってゆきます。

かくして妖怪画はどんどん派手になってゆく。

北斎の妖怪画も、実にド派手なものです。

『百物語 提灯お岩』葛飾北斎画

『百物語 提灯お岩』葛飾北斎画/wikipediaより引用

このことをふまえ、石燕の絵とそれ以降のものを鑑賞してみると、馬琴の戸惑いもより深く理解できることでしょう。

大河ドラマでも、映画でも、江戸文化を味わう機会が増えるのは素晴らしいことだと思います。

この作品のあとも時代劇が続き、さらに盛り上がることを願ってやみません。

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅


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【参考】

映画『八犬伝』/amazonより引用

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武者震之助

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』以来、毎年レビューを担当。大河ドラマにとっての魏徴(ぎちょう)たらんと自認しているが、そう思うのは本人だけである。

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