山東京伝『堪忍袋緒〆善玉』

山東京伝の妻・お菊と蔦屋重三郎が描かれた『堪忍袋緒〆善玉』(東京都立中央図書館所蔵)/出典:国書データベース

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史実では2人の妻がいた山東京伝(北尾政演)吉原の遊女 菊園と玉の井とは?

大河ドラマ『べらぼう』で山東京伝(北尾政演)に対する注目度が急激に高まっていますね。

劇中では二枚目の古川雄大さんが演じ、何かといえば「吉原へ行きやしょ♪ つったじゅうさ~ん♪」とニヤつく超軟派キャラ。

しかし、いざ筆を握れば『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』のようなお笑い直球作品だけでなく、『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』のような教訓的黄表紙までこなし、いずれも大ヒットさせてしまう。

まさに当代随一の人気作家であり、女性にモテました。

京伝は二人の吉原遊女を妻にしています。

ドラマの中では扇屋の旦那から「もう夫婦みたいなもんだ!」と菊園をプッシュされていましたね。

あのシーン、史実から見てどうなのか?

二人の妻とは一体どんな女性だったのか?

本記事で振り返ってみましょう。

山東京伝の妻・お菊(菊園)が描かれた『堪忍袋緒〆善玉』(東京都立中央図書館所蔵)/出典:国書データベース

 


劇中の軟派キャラまんま

そもそも山東京伝は、なぜああも吉原で遊ぶことができたのか?

それは蔦屋重三郎の贔屓だけでなく、彼の実家が太い質屋だったから。

要はボンボンだったんですね。

深川生まれで本名は岩瀬醒(いわせ さむる)。

青年時代はほとんど家に帰らず、吉原に入り浸ってたとされ、劇中の軟派キャラまんまの生活だった事がうかがえます。

『江戸花京橋名取 山東京伝像』

山東京伝を描いた『江戸花京橋名取 山東京伝像』/wikipediaより引用

やがて京伝は絵師として吉原遊女を描くようになり、さらには天明2年(1782年)、蔦屋重三郎の元で黄表紙『手前勝手御存商売物(てまえかってごぞんじのしょうばいもの)』を執筆すると、これが大ヒット。

以降、次々に作品を手掛けてゆき、ドラマでも描かれたような活躍を経て、菊園(お菊)を妻に迎えたのは黄表紙デビューから9年後、寛政2年(1790年)のことでした。

新吉原の桜・歌川広重

新吉原の桜・歌川広重/wikipediaより引用1200

 


安定収入のため 煙草グッズ店をオープン

当時の菊園(お菊)は、吉原扇屋(扇屋宇右衛門)の番頭新造でした。

番頭新造とは、花魁を補佐するマネージャーのような立場であり、年季(勤務期間)を終えた遊女などが就く仕事です。

このとき山東京伝は数えで33才。

お菊の正確な年齢は不明ですが、吉原の年季期間は一般的に足かけ10年(満9年)とされ、京伝の著書にも「27才が吉原遊女の年季があける年」という記述があります。ゆえに彼女も27才前後というのが自然ですね。

菊園という名前が、天明6年(1786年)頃から京伝の黄表紙や洒落本などに見えるため、少なくとも4年以上は馴染みの関係でした。

で、実際に2人の結婚生活はどうだったのか?

わずかな記録から、幸せそうだったことは窺えます。

結婚2年後の寛政4年(1792年)、京伝は両国で書画会(ファンサービスを絡めた販売イベント)を開き、そこで得た三十両の軍資金をもとに京橋銀座一丁目で「京屋」を開くのです。

歌川豊国『山東京伝の見世』

歌川豊国『山東京伝の見世』/出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

京屋では“煙管(きせる)”や“紙たばこ入れ”を扱い、京伝としては安定収入を狙っていました。

時折しも、松平定信による出版規制の嵐が吹き荒んで、執筆活動自体が厳しくなっており、京伝自らが「常の産業(定期的な収入のある職業)」を持てと、弟子の曲亭馬琴に諭しているほどです。

結婚生活には、なにより安定した収入が重要ですから、京伝もそれだけお菊との生活を真面目に考えていたのでしょう。

『べらぼう』で古川雄大さんが演じる京伝も、途中でキャラ変するかもしれませんね。

なお「紙たばこ入れ」とは「紙タバコを入れるケース」のことではなく、「“紙製”のタバコケース」を指します。

当時の革製品は非常に高価でしたので、“油紙”を使って皮のような強度や見た目にしたタバコケースが流行っていました。

煙管(きせる)なども同時に収納できる江戸の定番グッズであり、現在で言えばスマホケースみたいなものですね。

現物を見てみたい!

という方は「たばこと塩の博物館公式サイト」をご覧ください。

それはもう豪華きらびやかな紙製タバコケースでして、江戸時代の技術力に感服するばかりです。

 


蔦重に茶を入れるお菊

お菊の記録がもう一つ。

寛政5年(1793年)に山東京伝が蔦屋重三郎と共に出した『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま)』に

「お菊さんがお茶を運んで、蔦屋重三郎を迎えている場面」

が描かれています。

山東京伝『堪忍袋緒〆善玉』

蔦屋重三郎にお茶を入れる妻お菊『堪忍袋緒〆善玉』(東京都立中央図書館所蔵)/出典:国書データベース

完全に身内ノリではありますが、数々の浮名を流した京伝も、それだけお菊との生活が充実していたのでしょう。

しかし、その幸せも間もなく崩壊してしまいます。

京伝が別の女性に目移りしたから……ではなく、店舗を構えた同年冬に、お菊は病死してしまうのです。

 

吉原弥八玉屋「玉の井」

吉原で遊女として過ごす10年は「苦界十年」と呼ばれ、それはもう大変な負担となります。

お菊の死因も血塊(けっかい・婦人病)と推定。

ゆえに、せっかく年季が明けても、早くに亡くなってしまったのでしょう。

山東京伝としてもショックだったのか。

次に妻を迎えるのはそれから8年も経過した寛政12年(1800年)のこと。

今度は吉原弥八玉屋の遊女である玉の井(百合)でした。

彼女は当時23歳で、身請け金は二十両。

ドラマの中で合計1200両とされた誰袖と比べると破格ですし、幸い、紙たばこ入れ屋の「京屋」も繁盛しており、生活に困るようなこともありません。

二人は、百合の弟を養子として引き受けています。

彼女の姿は、山東京伝作の黄表紙『作者胎内十月図』で見られます。

京伝の横で裁縫する様子が描かれているのです。

『作者胎内十月図』

『作者胎内十月図』に登場する玉の井(百合)/国立国会図書館蔵

山東京伝は文化13年9月7日(1816年10月27日)、胸の痛みで発作が起き亡くなりました。

享年56。

その後、百合は精神を病んでしまい、京伝の弟である山東京山によって物置に監禁されると、文化15年(1818年)正月、夫の京伝から遅れること一年あまりで亡くなりました。

最期こそ不遇ではありましたが、それだけ生前の夫婦仲が睦まじかったということでしょう。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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