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【朝倉義景】
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浅井と共に織田軍挟撃を試みるも
義昭は、光秀の助言を受けて岐阜に移り、織田信長は妹の嫁ぎ先でもあった浅井長政などの協力も受けて、永禄十一年(1568年)9月に上洛戦を敢行。
庇護者を変えただけで、義昭の望みはあっさり叶ってしまったのでした。
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おそらく、このことは義景の自尊心をいたく傷つけたと思われます。
信長は上洛後、諸大名や武将を上洛させるため、義昭の名で文書を出しているのですが、義景はこれを無視。【朝倉氏vs織田氏】という争いへ発展していきます。
話が前後しますが、義昭が織田家へ到着した頃、義景は「若狭武田氏の内紛を収めるため」として、若狭の諸城を攻めていました。
若年の当主・武田元明を「保護」という名目で一乗谷に連れ去り、若狭と武田氏を事実上乗っ取っています。
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しかし、当然ながら武田家臣の中には、義景の支配を拒む者もいました。
粟屋勝久もその一人。
勝久は元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に越前へ攻め込んできたとき、織田方に協力しています。
信長は、朝倉方の天筒山城、金ヶ崎城を攻め落とすなど、破竹の勢いで進撃しました。
しかし、そこから朝倉の本拠地・一乗谷まで一気に攻め落とすのは、途中、山間部を越えていかねばならず、信長がどのような戦略を考えていたかはわかりません。
なぜなら浅井家が突如として織田家を裏切り、攻撃どころではなくなってしまったからです。
※左下の赤い拠点が天筒山城と金ヶ崎城で、右上が一乗谷城
浅井長政は織田軍の背後を衝こうとして、軍を北上させました。
一方、その報を聞いた信長は一瞬、躊躇するものの、撤退を即断。今日では「金ヶ崎の退き口」とか「金ヶ崎の戦い」と呼ばれている撤退戦が始まります。
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撤退戦で大切なのは、一番うしろで敵を引きつける役の殿(しんがり)です。
その大役に選ばれたのが豊臣秀吉であり、明智光秀であり、彼らが朝倉軍と戦いながらジリジリと京都を目指す間に、信長は別ルートで一足先に京都への帰還に成功しました。
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このとき、義景も出兵しておりましたが、途中で引き返していました。
代わりに、織田・徳川軍の追撃は景鏡に任せ、そして織田軍の主要舞台を取り逃がしております。
実はこの後に行われた、同年6月
◆姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)
も、朝倉軍の総大将は義景ではなく、景鏡でした。
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姉川の戦いは浅井・朝倉軍の敗北に終わりました。
しかし、敵も味方も決定的なダメージまでには至らず、ここから両氏と織田家との戦いは本格化。
次なる一手を先に仕掛けたのは、浅井・朝倉連合軍からでした。
第一次信長包囲網
元亀元年(1570年)9月――。
信長が大坂で石山本願寺と相対していた【野田城・福島城の戦い】タイミングを狙って、浅井朝倉連合軍は、近江の宇佐山城へ攻めかかりました。
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戦いは、浅井・朝倉軍の勝利に終わり、両軍は、そのまま京都へ迫るかに見えました。
しかし、信長が神速のスピードで大坂から坂本へ移動。
思わぬ織田軍の登場に焦った浅井・朝倉軍は比叡山に入り、小規模な戦闘をしながら大きな戦乱には発展せず、ほぼ数ヶ月間が籠城のまま過ぎました。
途中で信長が延暦寺側に交渉したり、朝倉軍に決戦を申し出たりはしていましたが、決着には至らず、11月下旬を迎えます。
旧暦の11月下旬ですから、新暦では既に年末。
越前への帰路が雪深くなっていてもおかしくない時期でしょう。
この浅井朝倉の【比叡山籠城】については、最終的に足利義昭の調停による「停戦・双方の撤退」という形で終わっているのですが、その経緯が史料によって少々異なります。
信長公記では【朝倉義景が将軍に泣きついて調停させた】ということになっています。
しかし、他の記録では【信長が朝廷へ工作し、勅命講和を引き出した】というのもあります。
戦争が続いて困っていたのは……おそらく信長でしょう。
確かに朝倉軍は雪という不利がありましたが、浅井軍、本願寺を中心に敷いた第一次信長包囲網は有効に機能しており、金ヶ崎の退き口以来の千載一遇の好機を逃したのかもしれません。
義景の行動から受ける印象が、どことなく「覚悟が足りない」というのは、こうした煮え切らない状況の積み重ねが影響しているのかもしれません。
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重要拠点の延暦寺も焼き討ちされ
浅井と共に近江・坂本の織田拠点を打ち破りながら、信長の思わぬ行軍の速さで結果的に和睦へと持ち込まれてしまった浅井朝倉軍。
むろん、両者、このまま引くワケがありません。
元亀二年(1571年)1月。
信長は、羽柴秀吉に命じて越前~近江間の交通を妨害し始めました。
物資の流通が停滞し、次第に圧迫されていった浅井・朝倉両氏は、8月に織田領の横山城・箕浦城を攻撃しますが、逆に敗れてしまいます。
※右側の黄色い拠点が横山城と箕輪城で、左側の赤い拠点が比叡山延暦寺
また、両氏へ協力したとみなされた比叡山も、同年9月に信長から焼き討ちを受けて壊滅しました。
当時、山上に天台宗の僧侶たちはほとんど住んでおらず、人的被害は後世でいわれているほどのものではなかったとする説もあります。
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しかし義景や長政からすれば、二度と同じ手を使うことができず手痛いところです。なにより比叡山延暦寺は、政治の中心・京都に楔を打ち込むためには格好のロケーションでした。
その後しばらく、主に北近江を舞台として、浅井・朝倉vs織田の散発的な戦闘が続きます。
元亀三年(1573年)7月には信長が浅井氏の本拠・小谷城を攻めようとしたため、長政は義景に救援を依頼。
義景が出馬して小谷城に入ったものの、このときも打って出ようとはしませんでした。
援軍としてやってきたのに引きこもってばかりで、相手からの申し入れに返事すらしない……となると、何より悪影響を受けるのは自軍の将兵です。
わざわざ出向いてきているのに、手柄を挙げる機会すらもらえない。せめて好機をうかがう素振りだけでも見せていれば、話は違っていたかもしれません。
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